2
狩留賀海道

狩留賀海岸から古鷹山を眺めつつ、明治の軍神、広瀬武夫を偲ぶ

天応駅前から猪山トンネルを抜け、しばらく海沿いに続く国道31号線をあるいてゆくと、狩留賀海浜公園にたどり着く。この狩留賀海浜公園は呉市街地から車で十分程度という立地条件のよさと、近年、美しい海浜公園に造成されたこともあり、夏場ともなると近隣諸地域から集まる海水浴客で大変に賑わう。

公園内にはいり、白浜の美しい海岸に立ってみた。目の前には、きわめて透明度が高い海をはさんで、江田島という島が大きく横たわっている。この江田島市には海軍兵学校を前身とする海上自衛隊第一術科学校があり、海軍を前身とする地方総監部がある呉とは身近なまちである。この江田島の中央に威厳をもってそびえたつ山が標高376メートルを誇る古鷹山である。この古鷹山の山頂付近の急な勾配を眺めつつ、江田島の海軍兵学校最初の卒業生であり、学生時代、この山に百回登ったという伝説を残している広瀬武夫という男に想いを馳せた。

広瀬武夫は、明治元年(1868年)に豊後の国(現在の大分県)、竹田藩士の子として誕生した。明治十八年に海軍兵学校へはいったが、病のため卒業時の席次は下位であったという。明治二十四年に少尉に任官したあとも出世が遅れていたが、明治三十年にロシア留学生に抜擢され、留学期間終了後も引き続きロシア駐在員としてロシアの内陸部や欧米諸国を渡りあるき、見聞を広めた。その後、明治三十五年に帰国して戦艦「朝日」の水雷長となった。

明治三十七年(1904年)に日露戦争が勃発。この戦争初期に実施された旅順港閉塞作戦において広瀬は指揮官となった。この旅順港閉塞作戦は、ロシア艦隊を旅順港に閉じ込めるため、その港口に汽船を沈めて塞いでしまおうという命がけの作戦であり、汽船には志願兵のみが乗り込んだ。また、生還した兵員は二度と作戦への参加が許されず、士官だけが何度も死地に赴いた。これが江戸末期に成熟した武士道の余韻が濃厚に残る「明治の海軍」というものであろう。広瀬が二度目に乗り込んだ福井丸は、港口の黄金山付近でロシアの魚雷を受けて沈没した。広瀬はこのとき、行方不明になった杉野孫七上等兵をさがして沈もうとする船内を駆けまわったことにより脱出に遅れ、短艇に移乗した直後に海岸砲台からの砲弾を受けて爆死した。享年三十七歳であった。

広瀬武夫の故郷であり、「荒城の月」で有名な滝廉太郎の出身地でもある大分県竹田市の岡城跡近郊には、軍神、広瀬武夫を祭る広瀬神社があり、福井丸自沈用の石が戦没者碑の礎石となっている。命の大切さを知っていた軍に対し、国民もまた、命を賭した軍人の処し方を知っていたのである。中村草田男が「降る雪や明治は遠くなりにけり」と詠んだように、澄みきった色彩世界を明治という時代に感じられるのは、あるいは、広瀬武夫のように武士道精神を多分に留めていた人物が数多く存在していたからではないだろうか。