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吉浦海道

安摩荘矢野浦の領主、野間氏の活躍と呉衆との攻防について

狩留賀から吉浦トンネルを抜けて吉浦湾を眺めつつ、緩い勾配をくだっていくと吉浦に出る。さらに、吉浦駅前の商店街をあるき、一直線にのびる緩やかな坂をのぼり続けると、吉浦松葉町というまちに到達する。ここは天応海道でも触れた野間氏の本拠地であった吉浦堀城があった場所とされている。野間氏は室町時代を通じて、現在の矢野、坂、天応、吉浦から昭和地区に相当する安摩荘矢野浦とよばれた広大な領域を支配していた。

現在、城の形跡は残っていないが、コンクリートでかためられた小さな丘が現存する。かつてはこの場所に城が築かれていたのではないだろうか。この丘から、遠く光り輝く海を眺めると、この城を本拠地として、天応の天狗城、焼山城平山、押込村古塁、苗代村掃部城といった城砦網を張り巡らせた野間氏の勢力に想いを馳せることができる。

応仁の乱以後、出雲の守護、尼子経久は、月山富田城を拠点に石見、備後などの近隣諸国に進出していたが、大永三年(1523年)、ついに安芸に侵攻。周防の守護、大内義興が分国として支配していた東西条(現在の西条あたりから黒瀬川流域)の拠点、鏡山城を攻略した。この時、従来大内氏に臣従していた矢野浦の野間氏をはじめ、蒲刈の多賀谷氏、能美の能美氏らが尼子氏に寝返った。なかでも、野間氏は、この機会に尼子氏に属することで一挙に呉地域を支配下におさめようとしたのである。

時の当主、野間彦四郎は、大内側に留まった呉衆を一挙に打ち破り、現在の呉地方総監部の城山あたりに千束要害を築いて音戸の瀬戸までを支配下に置いた。さらに、海をはさんで、これまで波多見島の領有権を争っていた小早川氏傘下の乃美氏と対峙したのである。呉戦国史の圧巻といえるのではないか。

しかし大永五年(1525年)三月、大内義興が毛利元就を帰服させたことにより、大内氏は尼子氏に対して全面攻勢に出る。まず、陶興房率いる大内軍が巻き返しを図って矢野城を攻撃。これに呼応した瀬戸城の乃美氏と波多見島などで反撃の機会をうかがっていた呉衆が千束要害を攻撃した。これらの攻撃により窮地に立った野間彦四郎は、蒲刈の多賀谷武重を介して陶興房に降伏。現在の呉市域から撤退したのである。

弘治二十四年(1555年)、毛利元就が厳島で陶晴賢を討ち、旧大内領が毛利氏の支配下にはいると、野間氏が治めていた吉浦は、毛利元就の次男で吉川家の家督を継いだ吉川元春が知行し、野間旧臣、末永弥六兵衛らに与えられた。戦国時代、中国地方の覇権を争っていた有力大名、大内氏や尼子氏、そして元就の登場で急速に台頭した毛利氏の趨勢に左右された水軍の雄、野間氏を偲びつつ、のぼってきた坂道を商店街にむかってゆっくりとくだりはじめた。