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海岸のみち

戦前の繁華街海岸通りをあるき、明治商人の気質を考える

海上保安大学のある若葉町から 市街地にむかってあるきはじめると間もなく、明治、大正期の賑わいを偲ぶことができる川原石界隈に出る。戦前まで川原石港は、商船や連絡船など汽船全般の発着港として活躍した。当時、この海岸一 帯には、青果市場や魚市場、雑貨商や船具商などの様々な商店、さらには料亭や旅館などが軒を連ね、大変賑わったといわれる。しばらく 海沿いのみちをあるいてから、明治から大正の初期までは、海に隣り合わせであったとされる海岸通りにはいった。鎮守府開庁に伴い、多くの軍人やテクノクラートが全国から呉の地に集まってきたといわれるが、ビジネスチャンスあふれるこの界隈には、偉大なる野望を抱いた明治の起業家たちが各地 から集まってきたにちがいない。

明治期、わが国は渋沢栄一や岩崎弥太郎、益田孝、中上川彦次郎、団琢磨、五代友厚、豊田佐吉、伊藤忠兵衛など、現代とは大きく異なり、濃厚に「公」の雰囲気が漂う実業家を数多く輩出している。なかでも渋沢栄一は日本型資本主義の産みの親ともいえる存在であり、第一国立銀行や王子製紙をは じめ、五百余りの会社の創業に携わりながらも、自分自身の財産を残そうとしなかった。戦後、GHQから財閥に指定されたが、調査の結果、財産がないことが判明して後に解除されている。渋沢家は 代々、埼玉で農業、養蚕、藍玉商を営む豪商であり、父、市郎右衛門の代には荒物商や金融業に手を ひろげた。この父が大変な学問好きで、幼い栄一に四書五経を教えた。のちに渋沢栄一は「論語とそろばんの両立」を唱え、論語の道義に裏打ちされた経営を説いた。商才も儒教の教養も少年期にきっちりと叩き込まれていたのである。

この時代、この界隈に集まってきた実業家も金儲けのためというよりはむしろ富国強兵を進める日本国海軍の根幹を支えようとする志の高い人物が多かったのではないだろうか。かつては海に隣接した繁華街であった海岸通りをあるいてみると、昭和後期にも見られた玩具屋などが数件営業しているが、おおむねシャッターは閉ざされており、一抹の寂しさを禁じえない。海岸通りをしばらくあるき、大きな車ではのぼることができない曲がりくねった急勾配の小みちをのぼることとした。明治期のままの姿を留める坂みちでは車の通りが少ないためか野良猫たちが道路のまんなかで堂々と昼寝をしている。

急勾配のみちを両城中学校の足元までのぼり、海のほうを眺めてみた。大正五年(1916年)あたりまで手前のバス通りからむこうは海だったそうであるが、現在ではかなり遠くまで埋め立てられており、視界にはいる海面の面積 はせばまりつつある。その海の遥か南には、海軍工廠時代に戦艦「安芸」「長門」「大和」、さらに真珠湾攻撃でも活躍した航空母艦「赤城」「蒼龍」など最新鋭の軍艦を次々と建造し、戦後においては、タンカーやLNG、LPG運搬船からコンテナ船、大型フェリーに至るまで最大級の船舶を絶えず建造している造船所やその先に広がる製鋼所までを眺望することができる。