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有崎城跡散歩

有崎城跡から呉港を望み、近代文学の巨匠、正岡子規を偲ぶ

海岸通りが尽きるあたりに交番があり、これを左に曲がれば三条通りにはいる。この三条通りをあるきはじめるとすぐ左手に城山と刻まれた小さな鳥居があり、その背後につづく石段をのぼってゆくと、かつて有崎城があったとされる場所に大歳神社と金比羅山公園がある。この丘は低いながらも見晴らしがよく、呉湾や呉市街をほぼ360度見渡すことができる。かつては岬であったであろうこの地に築かれた有崎城は、この地域の水軍が活躍した室町、戦国時代には、地の利を得た天然の要塞として機能したのではないか。

大歳神社は、天照大御神や須佐之男命などを祭祀として、明治四十三年(1910年)にこの地に鎮座したとある。この神社から、若葉の海と目の前の川原石港、呉港の全容までを眺望することができる。また、大歳神社の一段下の広場は金比羅山公園となっており、その公園の高台には、正岡子規が 呉港の美しさを詠んだ自筆の句を刻んだ碑が、海を望んでひそやかにたたずんでいる。

大船や 波あたたかに 鴎浮く

明治の大文豪、夏目漱石とも同級生であり、親友でもあった正岡子規は、大政奉還のあった慶応三年(1867年)、伊予の国、松山に生まれ、明治三十五年(1902年)に35年の生涯を閉じている。肺病に苦しみながら旧弊な勢力と戦って、近代詩歌の世界を確立し、近代文学に大きな爪跡を残した人物である。

また、ベースボールを野球と最初に翻訳したのが正岡子規だった。野球をこよなく愛し、「恋知らぬ猫のふり也球遊び」など、野球にちなんだ俳句や短歌 が数多く残っている。

日清戦争のさなか明治二十八年(1895年)三月九日、当時二十八歳だった子規は、従軍記者として中国大陸へ渡航の途上、鎮守府が置かれて間もない呉港から出航する連合艦隊旗艦松島に乗り込む友人、古嶋一雄を見送るため 宇品から川原石に来航して一泊している。この句は、そのときの呉港の美しさを詠んだものである。病をおして中国大陸へ渡った子規 はその帰航中に喀血し、病臥生活を強いられることとなった。その後、短歌俳句の世界へ意識を集中させ、近代詩歌の確立に最後の命を燃やすのであった。

呉を訪れた子規も見晴らしのよいこの場所に立ち、休山の麓に広がる呉のまちと「世界屈指の天然の良港」といわれた軍港を眼下に眺めたにちがいない。陽がまさに沈まんとしている。この碑のある高台から呉湾を望むと、巨大な軍艦がうみだす大きな波の上に鴎たちがのんびりと浮かんでいるといった往時の呉軍港の景観とこの丘に立つ近代文学の巨人、正岡子規の風姿が目にうかぶがごとく偲ばれるのである。