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三条のみち

三条通り商店街をあるき、鯛の宮神社にて明治海軍を考える

三条通りをあるきはじめた。かつてはこの通りも商店街として賑わいをみせたであろうことが偲ばれる。ほとんどの店ではシャッターが閉じられたままになっているが、そんななかで、理髪店や魚屋、肉屋、本屋、お好み焼き屋などの商店が今なお活躍している。途中、両城小学校の裏手のみちをはいっ てゆくと、映画「海猿」で訓練生が駆け上るシーンが撮影された両城二百階段をあおぎ見ることができる。訓練生になったつもりで階段を駆けのぼると呉の市街地から呉湾まで広く見渡すことができる。

再び三条通りをあるきはじめると、明治時代のものと推察される井戸水を汲み上げるポンプが当時のままの形をとどめて残されている。さらにこの通りを北端まであるき、細いみちを西にはいってゆくと「鯛の宮」と刻まれた鳥居があり、百段ほどの階段をのぼるとその昔、豊漁を祈って漁民が建立したといわれる鯛の宮神社がある。鯛の宮神社の境内には、高さ十九メートルといわれる第六潜水艇殉難之碑がそびえ立っており、佐久間艇長以下殉職した十四名の名前や潜水艇沈没のいきさつなどが刻まれている。殉職者の年齢をみると二十四歳から三十五歳までの青年ばかりである。

明治四十三年(1910年)四月十五日、訓練のため呉港を出航した国産初の潜水艇、第六潜水艇は山口県新湊市沖で遭難、沈没した。 艇員十四名は、遭難した午前十時から沈没するまでの二時間四十分もの間、持ち場を離れず修復に力を尽くし、従容として死を迎えたと のことである。三十二歳で殉職した佐久間艇長の遺言には、「艇員一 同死ニ至ルマデソノ職ヲ守リ沈着 ニ事ヲ処セリ」という言葉がある。 明治の海軍というものには、まだ、江戸末期に完成した武士道精神が 濃厚に残っていたことがわかる。

人がどう思考し、どう行動すれば公のためになるかというのが江戸期の武士道である。江戸時代の武士という抽象性に富んだ人格をつくりあげた要素のひとつは、大陸から渡来し、日本的に理解された禅の仮宅思想である。そして日本的に理解された儒教、とりわけ朱子学が江戸期の武士をつくった。 朱子学は江戸時代の武士に志の大切さを教えた。志とは経世の志であり、自己の生死を度外視して公のために尽くすというものである。

あらゆる自然に神々が宿るとする古代からの「神道」が基礎にあり、禅による仮宅思想と儒教による志の思想の両要素が見事に融合され江戸末期の武士道精神という結晶を生み出した。明治時代まではあらゆる分野で江戸期の武士道を濃厚に受け継いだ人物が存在していたことがわかる。いつの日から日 本人は、あらゆる法や道徳に先んじる武士道というものを忘れ去ってしまったのであろうか。