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和庄海道

山本氏ゆかりの和庄杉迫城跡に立ち、戦国期の呉衆を考える

中央桟橋から堺川に沿ってある きはじめ、夜は屋台で賑わう蔵本通りを呉の象徴である灰ヶ峰にむかってまっすぐ進んだ。呉市街の真正面に威厳をもってそびえ立つ灰ヶ峰は標高737メートルを誇り、古来より母なる山として人々から愛され続けてきた。呉市役所前を右に曲って市役所通りをしば らくあるいてゆくとやがて緩やかな登り坂となり、和庄登町に出る。和庄中学校に隣接して、明法寺と寺迫公園があるが、この場所には、室町時代、呉衆の中でも中心勢力を誇っていた山本氏の居城であった和庄杉迫城が存在した。

南北朝の動乱期から室町期を通じて、この杉迫城を本拠地とした山本氏、阿賀龍王山城の檜垣氏、警固屋堀城の警固屋氏により構成された呉衆、そして多賀谷氏の蒲刈衆、能美氏の能美衆は三ヶ島衆とよばれる水軍であった。三ヶ島衆は、周防の守護大名で、東西条とよばれた西条盆地から黒瀬川流域、阿賀、広、仁方におよぶ領域を分国として支配していた大内氏に臣従し、大内水軍の一翼を担っ てしばしば全国を舞台に活躍している。

応仁元年(1467年)、足利将軍家と畠山、斯波の両管領家の継嗣問題や、管領細川家と山名宗全の幕府内の勢力争いを契機に応仁の乱が起こる。応仁の乱は、細川 方の東軍と山名方の西軍に全国の守護大名がわかれ、十一年間にも およんだ。このとき、山本氏を筆頭とする呉衆などの三ヶ島衆が、 西軍の山名宗全をかついで上洛した大内政弘の先陣をつとめている。また、文明九年(1477年)には、呉、蒲刈、能美の三ヶ島衆が水軍を編成し、大内政弘の豊前花尾城 攻略に参戦している。以後、呉衆は大内政弘、義興、義隆の三代に わたって大内家に従ってきた。

天文二十年(1551年)、大内 義隆が、家臣であった陶晴賢に滅ぼされると、長年大内家と同盟関係にあった吉田の国人領主、毛利元就は陶晴賢との提携を破棄する。 呉衆は、あくまで忠義を貫き、陶晴賢率いる大内方に味方した。その結果、天文二十三年(1554年)、毛利元就の三男で竹原小早川 家に養子に出て家督を継いだ小早川隆景に呉地方を接収され、翌年には、矢野の野間氏も毛利軍に破 れている。

弘治元年(1555年)、西国の 桶狭間といわれた厳島合戦において毛利元就が陶晴賢を討つと、安芸、周防、長門を中心とする広大な領域は毛利氏の支配下に置かれる。このとき、旧野間領吉浦は、元就の次男で、吉川家の家督を継いだ吉川元春の知行するところとなる。毛利家が戦国大名として独 立し、全盛期への第一歩を踏み出すと同時に、呉衆をはじめとする呉地域の水軍は歴史からその姿を消してゆくこととなるのである。寺迫公園の高台から、かつては海であった呉市街を眺めた。この場所に立って想うことは、西国一の大名として長年栄華を極めながらも下克上により滅亡した大内家の 悲哀であり、その大内家に最後まで忠義を尽くし、歴史からその姿 を消していった山本氏をはじめとする呉衆の悲哀である。