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亀山神社参拝

閑静な境内をあるき、創立の由来や明治期のエピソードにふれる

明法寺から亀山神社へあるいた。 この亀山神社については、明治初期に失われた古文書に、「筑紫国宇佐島より後国姫島に御鎮座、人皇四十代天武天皇の御宇白鳳八年八月十五日巳刻に姫島より安芸国栃原村甲手山に天降り給い、後、人皇四十二代文武天皇の御宇大宝三癸卯年(703年)八月十五日、 呉宮原村字亀山の地に鎮座せり」という記述があったと伝えられる。

筑紫国宇佐島とは、568年にわが国で最初に出現した八幡神とされる大分県宇佐市の宇佐神宮を指し、宇佐市に隣接する豊後高田市の沖には姫島がある。地図で確認すると、宇佐神宮と姫島を結んだ一直線上に呉市があることがわかる。安芸国栃原村甲手山とは現在の神山であり、神山に舞い降り、その後、現在の入船山記念館がある山に大宝三年(703年)、鎮座したということである。

平安末期には平清盛が音戸の瀬戸を切り開くにあたり、大願成就を祈願して蔵人郷に代拝させ、その成就の後も厚く奉賓しており、厳島造営の際には亀山神社にも神殿、玉桓、末社、能舞台を造営して寄進したとされている。また、室町中期には藤原氏秋卿が鳥居の額字、御太刀一腰を奉納している ほか、武田親繁が安芸の国に入国した際に采地八反を寄付している。

大宝三年(703年)から実に1183年間もの長きにわたり亀山の地(現在の入船山)に鎮座してきたが、明治十九年(1886年)に海軍用地として接収され、明治二十三年(1890年)に現在の清水一丁目に移転した。

呉鎮守府開庁以後、歴代司令長官は着退任の際に報告祈願に参拝し、呉港出入りの艦船の将兵もまたその都度参拝。航海安全や武運長久を祈願する慣習が終戦時まで続いた。日清戦争当時を偲ばせるものとして清国軍艦「鎮遠」の回航記念碑が境内の片隅にたたずんでいる。その花崗岩の台座には、幕末、吉田松陰に影響を与えた長浜出身の勤 皇僧、宇都宮黙霖の撰文が刻まれている。

参道をあるいてゆくと、その脇に立派な石灯篭が一対ある。初代ミスター タイガースとよばれ、野球殿堂入りを果たした元阪神タイ ガースの藤村富美男選手は、昭和 十一年(1936年)、呉港中学(現在の呉港高等学校)野球部時代に投手として甲子園に出場し優勝しているが、この灯篭はそのとき、 優勝記念に奉納されたものである。

正面の石段を一歩一歩くだりつつ遠方を眺めると、中央桟橋のターミ ナルが見え、呉湾の海面とその背後に横たわる江田島までが視界にはいってくる。さらに、風情ある石の坂をあるいてゆくと、大きく左に曲がりながら勾配が最も急になっているあたりに巨大な鳥居があり、鳥居越しに海を望むことができる。その鳥 居をくぐりぬけて、かつて海軍の増 設時まで亀山神社があった入船山公園にむかうこととする。