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休山登山

休山山頂にて、天応海道から子規句碑前を振り返る

呉市の西の玄関口である天応からあるきはじめた「海道をゆく」は、狩留賀、吉浦、若葉、海岸、有崎城跡、三条、中央桟橋界隈、和庄、亀山神社、入船山、子規句碑前とじつに十二海道におよんだ。天応には神武天皇臨場の言い伝えがあり、若葉には五世紀頃と推定される池浜古墳が存在した。大宝三年(703年)に創立された亀山神社にも様々な由来がある。吉浦や和庄には、室町、戦国時代に活躍した野間氏や山本氏の居城跡があり、狩留賀浜から眺めた古鷹山、海岸、有崎城跡、三条、中央桟橋界隈、入船山、子規句碑前には、海軍が設置された明治時代以降の逸話が濃厚に存在する。これらの海道をあるきながら郷土の美しい原風景に接しつつ、それぞれの土地にまつわる歴史や文化というものを考えてきたが、このたびは、これまでの道のりを振り返るため、これら諸海道を一望できる休山山頂にのぼってみることとした。

山頂から遠く北西を眺めると、私たちがあるきはじめた天応の彼方に広島市の宇品あたりまでを望むことができる。呉と江田島との間には、狩留賀や若葉の岬が飛び出しており、その先に大小麗女島が古代そのままの姿を留めてうかんでいる。そして鉢巻山の足元をかためるかのようにかつては海であった呉市街が広がっている。普段私たちが生活や仕事の舞台として、何気なく通り過ぎてしまう道々ではある。しかし、これらの海道には、古来より海と共に生き抜いてきた人々の歴史が積み重ねられており、私たちの世代の責任とし て、これら郷土の自然、歴史、文化を守り、次世代へこれを引き継ぎ、語り継いでいかなければならないのではないだろうか。

戦後、多分に米国の占領政策の 影響によるものとはいえ、私たち日本人は、いとも簡単に欧米流の物質文明、拝金主義、利己主義に染まってしまった。先人が二千六百年以上もの長きにわたり積み重ねてきた日本固有のすばらしい精神遺産を戦後のわずか六十二年の間にすっかり忘れ去ってしまったの である。戦後教育では、個人主義が強調され、「個人の権利の尊重」のかけ声の下、公共心の大切さよりも個性こそ大切と教えてきた。この結果、若者の引きこもり、児童の不登校、欲望を抑えきれない凄惨な殺人事件、故なき自殺の増 加など、様々な事件や社会問題を引き起こしている。

「私」という価値観だけで物事を考えるようになると世界がせばまってくるにちがいない。自分さえよければよいという発想から郷土への誇りや日本人としての誇りは 生まれないのである。呉地域への自信と誇りというものは、呉に生まれ育ったからといって自然に醸成されるものではない。「公」という発想を意識の中心に据え、まず、この地域が日本の歴史のひとつとして元来持っていた古きよきもの、悠久の歴史の中で培われてきた伝統、文化、精神性といったものを学ばなければならない。そして、私たちが日々生活していけるのは 先人が脈々と積み重ねてきた努力の賜物であることを理解してはじ めて郷土への誇りを抱くことができ、未来への責任を担っていくこ とができるのではないか。