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警固屋海道

からすこじまから警固屋氏堀城跡までをあるき、呉衆を考える

子規句碑前から造船所や海上自衛隊補給倉庫を眺めながらあるきつづけると、現役の潜水艦を観ることができる「アレイからすこじま」という公園にたどりつく。このあたりは明治期の海軍工廠拡張時に埋めたてられた土地であるが、それ以前より烏小島という名の離れ小島が存在した。そもそも烏小 島と名づけられた由来は、その昔、厳島の弥山に棲む神烏が紀州熊野へわたる際、この島まで追いすがってきた子烏と鳴いて別れを惜しんだという言い伝えにある。

公園の南端には旧海軍が魚雷などを潜水艦に積み込む際に使用したクレーンがほぼ原型を留めて展 示されており、周辺には旧海軍造兵廠時代に建てられたレンガづくりの倉庫が建ちならんでいる。このあたり一帯に漂う雰囲気から、古きよき明治、大正時代を感じる ことができる。

さらに南にあるくと警固屋という場所にたどりつくが、警固屋五丁目にある警固屋支所の上方尾根部にはかつて警固屋堀城という警固屋氏の居城が存在した。警固屋氏は山本氏、檜垣氏と共に呉衆とよばれた小領主連合を形成し、室町時代を通じて、西国一の守護大名であり、周防、長門(現在の山口県)を中心に広大な領域を支配下に置いていた大内氏に臣従して数々の合戦に従軍している。

大永三年(1523年)に尼子経久が大内氏の分国であった東西 条の拠点、鏡山城を攻略した際、毛利氏をはじめ、安芸の国人領主たちが次々と尼子方へ寝返ったが、このときでさえも呉衆は大内方に留まっている。大内家と呉衆の間に、私たちの想像を超える強固な 主従関係があったことがわかる。

天文九年(1540年)、出雲の 守護、尼子経久から家督を継いだ 尼子詮久は、対立する毛利元就の 居城、郡山城を取り囲んだ。この とき、元就は百万一心を掲げ、領 内の民を全て城内に引き入れて籠 城し、大内軍の救援を待った。こ の毛利救援軍の一翼を担った小早川興景軍の一員として警固屋小次 郎という人物が参戦したという記 録がある。また、大内氏滅亡後の 永禄十三年(1570年)に警固 屋市介という人物が、毛利氏の尼 子攻略において、牛尾要害攻めを 実施した阿曾沼軍の一員として従軍したとの記録も残っている。

これらの記録に接すると、毛利と陶の対立が顕著になった天文二十三年(1554年)において陶晴賢に味方し、小早川隆景に呉地域を接収されて滅亡したとされる呉衆ではあるが、その後も、警固屋を名乗る人物が毛利軍の一員として活躍していたことがわかる。かつて居城があった場所から音戸海峡を眺めると、戦国時代、大内氏や尼子氏、毛利氏といった有力大名たちの勢力争いに左右されながらも何とか手柄を立ててその名を後世に残した警固屋氏の活躍に想いを馳せることができる。