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高鳥台のみち

高鳥台から音戸大橋周辺をあるき、平安末期の清盛伝説を考える

警固屋から、見晴らしのよい高烏台にのぼってみた。高烏台は旧海軍砲台跡地であるだけにさすがに見晴らしがよく、音戸の瀬戸を見渡すことができる。また、この地の中央には2.7メートルの平清盛公日招像がある。烏帽子に直垂すがたの清盛が右手に扇をかかげている。台座の背後には、「清盛は 宋との貿易と厳島参詣の便宜を図りこの瀬戸を切り開いたが、永万元年(1165年)七月十日、沈 む太陽を中天に招き返してその日のうちに難事業を完成させた」という伝説に基づき、昭和四十二年 (1967年)にその八百年を記念して建てられたという由来が記されている。

また、この日招像のある場所から二百メートルほど、山道をくだってゆくと日招岩という清盛の足跡と杖の跡が残るとされる岩がある。この岩に清盛が立ち、沈みかける陽を招き返して突貫工事を可能にしたという。この日招岩からも木々の隙間から音戸海峡をわずかに望むことができるが、さらに道なき林をくだると徐々に視界が開け、音戸海峡全容を望むことができる展望台にたどりつく。

この広場からさらに道路をくだってゆくと、音戸大橋に隣接して音戸の瀬戸公園がある。公園の南端には、昭和三十八年(1963年)に全国で初めて呉市により建立さ れた吉川英治文学碑がある。吉川英治は、昭和二十五年、後にNHK大河ドラマの原作ともなった「新平家物語」執筆の際、この音戸の 瀬戸を訪れた。このとき清盛塚にむかって、「君よ今昔の感如何」と問いかけたそうであるが、この自筆の言葉が碑に刻まれている。吉川氏がこの地を訪れた当時は、昭和三十六年に建設された音戸大橋はなく、対岸の清盛塚がはっきりと眺められたのではないだろうか。

この場所から音戸の瀬戸を見おろすと、かつてこの要所を通過したであろう清盛をはじめとする日本史上の人物たちが目にうかんでくる。彼らが穏やかな瀬戸内海のなかでもとりわけ潮の流れが速い難所といわれた音戸の瀬戸を通過しつつも、このあたりの美しい景観に心を動かされたであろうことは想像に難くない。清盛と共に厳島を行幸した後白河法皇や高倉天皇もこの海峡を通過したであろうし、室町幕府三代将軍、足利義満も康応元年(1389年)に厳島を参拝した際、百隻余りの大船団でこの急流に苦労したことが記録に残っている。

また、江戸時代後期にわが国で最初の実測地図を完成させた伊能忠敬や、幕末の志士たちに多大なる影響を与えたといわれる日本史の超大作「日本外史」を執筆した頼山陽もこの対岸にあった音戸の大家、胡屋に幾度となく宿泊したという記録も残っている。わが国の地理や歴史を終生追及しつづけ た彼らもまた、音戸の瀬戸から聞こえてくる潮流の音に耳を傾け、海峡ならではの美しい景観を楽しみつつ、平清盛をはじめとするこの地域ゆかりの人物たちを偲んだにちがいない。