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宮島海道

からすこじまや清盛など呉との関わりが深い宮島を訪ねる

「からすこじま」の由来となる弥山の神烏伝説や平清盛、阿賀のお漕ぎ舟など、呉とのかかわりが非常に深い神の島、宮島を訪ねることとした。宮島は呉から海を渡ると十数キロと実に身近な距離にあり、宮城県の松島、京都府の天橋立とともに日本三景に数えられるばかりでなく、島全体の十四パー セントが1996年にユネスコの世界遺産に登録されている。

宮島桟橋で船を降り、有の浦とよばれる海岸線をあるいてゆくとほどなく、大鳥居が見え、厳島神社がその姿をあらわす。元来、島自体が神 聖視され、信仰の対象とされていた 宮島にこの厳島神社が創建されたの は、推古天皇が即位した593年、 佐伯鞍職によるとされる。久安二年 (1146年)には、平清盛がほぼ現在のかたちに造営し、平家の氏神として崇拝した。神社に隣接する宝 物館には、平清盛の平家納経三十三巻や源頼朝、足利尊氏、豊臣秀吉ら武将たちが武運を祈願して奉納した宝物が多数収蔵されている。

厳島神社の背後にのびる滝小路をあるいてゆくと、大聖院という霊験あらたかな寺院がある。この大聖院は、宮島に存在する寺院のなかで最も歴史が古く、弥山で修行をした空海が806年に開基したという真言宗御室派の大本山である。空海が修行を重ねたといわ れる弥山は、標高535メートルを誇り、その山頂から望むことができる美しき景観は、かの伊藤博文も「日本三景とよばれる所以」と絶賛した。

また、宮島には、弘治元年(1555年)、のちに中国十一カ国を支配することとなる毛利元就が、陶晴賢率いる大内軍を破った厳島合戦の舞台となったという戦史もある。この戦で毛利元就が勝利し、戦国大名としてその名を全国にとどろかせたことは、最後まで忠義を貫いて大内方に味方した呉衆の 滅亡に直接つながることとなる。

厳島合戦では、まず毛利元就が陶軍を厳島におびき寄せるため、有の浦におとりの宮尾城を築いた。陶晴賢はこの罠にかかり、九月二十一日、二万の兵を率いて大元浦へ上陸。宮尾城を望む塔の岡に陣を構えた。対岸の地御前に結集した元就率いる毛利軍本隊は、暴風雨が襲った九月三十日夜中に包ヶ浦に上陸し、十月一日未明に奇襲攻撃を決行する。これと同時に因島の村上水軍などの協力を得た元就の三男、小早川隆景が海から攻撃し、陶軍を壊滅させた。

宮島桟橋のそばにある要害山、宮尾城跡に立つと合戦の全容と毛利元就という男の策略家としての凄みが伝わってくる。元就はこの合戦の勝利により戦国大名としての第一歩を踏み出すこととなるが、この勝利の背景には、大内義隆を殺し、幼い義長をも死に追いやり、大内軍を実質的に支配した陶晴賢はあくまで私利私欲に奔った謀反人であり、主君を殺した謀反人を倒すという大義が元就にあったことを書き留めて終わりとしたい。