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六波羅蜜寺散歩

呉との関わりの深い平清盛を偲び、京都六波羅蜜寺を訪ねる

京都に赴いた際、呉との関わりが深い平清盛を偲ぶため、その境域に平家一門の邸館があったとされる六波羅蜜寺を訪ねることとした。五条大橋をわたって左手にある六波羅蜜寺界隈は、平家全盛期、その一門の邸館が五千二百以上にもおよんだといわれ、このため清盛は六波羅さんともよばれた。元 来この寺は、天暦五年(951年)、第六十代醍醐天皇の第二皇子である空也上人が西光寺として建立したものであり、空也上人の没後、弟子の中信上人がその規模を拡大し、六波羅蜜寺と改名したものである。

本堂には悪疫退散を念じて空也上人が刻んだという十一面観音立像(国宝)があり、宝物館には重要文化財である空也上人立像、平清盛坐像、弘法大師坐像、運慶坐像、湛慶坐像、地蔵菩薩坐像などの鎌倉時代の木像や薬師如来坐像、地藏菩薩立像、多聞天立像、増長天立像、持国天立像、広目天立像と いった平安時代の木像が立ちならんでいる。平安後期、この広大な境域には、 清盛の父、平忠盛が寺内の塔頭に軍勢を留めて以来、清盛、重盛に至る平家一門の邸館が軒を連ねた。寿永二年(1183年)の平家没落時に戦火を受け、諸堂は類焼し、本堂のみが焼失を免れた。本堂内部に焼け跡がはっきりと残っており、「祇園精舎の鐘の声」ではないが平家の悲哀というものを想わざるをえない。

平治元年(1159年)、頼朝、義経の父である源義朝を平治の乱で倒した平清盛は、武門の頂点に立った。朝廷で強力な院政による独裁を目論んでいた後白河上皇と手を結び、藤原官僚体制が生み出した政治的停滞を打破し、経済構造の大転換を実現すべく日宋貿易の拡大にも力をいれた。また、こ れらの政治、経済改革を急ピッチで進めるため福原遷都を強行。これに抵抗する後白河法皇の院政をも停止し、朝廷を凌ぐ絶対権力を掌握する。

一方、関東では、所領の利権をめぐって中央と対立する武士を取り込んだ源頼朝が一大勢力を築きつつ平家と対立するようになる。そんななか、清盛は志なかばで病に倒れ、治承五年(1182年)に六十四歳で永眠する。その翌年、京を没落した平家は、寿永三年(1184年)の宇治川の戦いや一ノ谷の合戦、さらに寿永四年(1185年)の屋島の合戦、壇ノ浦の合戦で源義経を中心とする源 氏軍にことごとく破れ、ついには滅亡した。

平清盛は、平家物語などでも悪逆無道の人物として描かれており、日本史上の人物の中でもあまり人気がない。しかし、清盛が打ってきた政策には、わが家の存続を超えて、貿易により国を豊かにすべきとする信念を垣間みることができる。織田信長や坂本龍馬とも相通じる交易主義者であり、鋭敏な 経済感覚と政治手腕、そしてその根底にある無私の精神をこの清盛という男に感じてしまう。