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音戸海道

渡船で島に渡り、法専寺から音戸町西岸を若宮さんまであるく

日本一短い定期航路である音戸の渡しという渡船に乗り、昭和三十六年(1961年)に日本初のアーチ型らせん式高架橋として開通した鮮やかな朱塗りの音戸大橋を見上げつつ、百メートル足らずの海峡を音戸に渡った。この海峡は、潮の流れが非常に速く、かつては瀬戸内航路のなかでも有名な難所であった。島に上陸するとまず法専寺という立派な石垣の寺がある。毛利元就の末子、元為は出家して法専と名乗ったがこの地に見張りを兼ねた天台宗の寺を開いた。その後、天文二十三年(1554年)に真宗に改宗され、現在の浄土真宗本願寺派となるに至った。法専寺には、天正四年(1576年)の石山合戦のときに毛利軍の船につけられていた鐘が保存されており、その石垣には一見、城郭を思わせる忍び返しがついている。

法専寺から細いみちをあるいてゆくと順覚寺という寺がある。江戸後期の文政四年(1808年)の火事で寺の下が残らず焼失したそうであるが、地元の名家、胡屋が焼けた屋敷を買い取り、雁木を寄進している。明治の小説家、徳富蘆花の作品「自然と人生」の「雨後の月」の章では、繁栄していた胡屋の最後の一人娘が主人公とされ、父母の死後倒産し、婚約者に残された財産を奪われたという不幸な人生が描かれている。蘆花はこの娘に「彼がそんなに金がほしいのなら、くれてやりましょう。公債や地券など一切やり、婚約も私のほうから破棄しました。金は大事なものですが、それも心のとりよう、私は身代残らず失ったが、その代わり億万円でも買うことのできぬ心の悟りを授けられました」と語らせている。

島の西海岸をあるいてゆくと、 江田島とを結ぶ早瀬大橋が見えてくる。早瀬大橋の足元の早瀬地区には、その昔、瀬戸内海を掌握した藤原純友と音戸美人との間に恋 物語があったとの言い伝えがある。承平五年(935年)、坂東で平将門が乱を起こすと、これに呼応するかのように天慶二年(939年)、瀬戸内海の海賊を率いた藤原純友が伊予で朝廷に対して反旗を翻した。天慶三年(940年)、将門は平貞盛、藤原秀郷に討ち取られ、天慶四年(941年)には、官軍 に西へ追い詰められた純友が小野好古、源経基に討たれる。今昔物語に「純友伊予国ニ有テ、多ノ猛キ塀ヲ集テ眷属トシテ、弓箭ヲ帯シテ、船ニ乗テ常ニ海ニ出デテ」という記述がある。藤原純友には、瀬戸内の海賊を従え、掌握するだけの力量と人間としての魅力があったにちがいない。

音戸町の南端には、若宮さんという石塔が小さな港を望んでたたずんでいる。文治元年(1185年)、屋島の合戦で源義経率いる源氏軍に破れた平家は、安徳天皇を奉じて壇ノ浦にくだったが、その途中、この対岸の能美島王泊に行在所が設けられ、旅の疲れを癒すためこの藤脇の地にも来遊した。同年、壇ノ浦の戦いに敗れた平家は滅亡し、高倉天皇と平清盛の娘である建礼門院徳子のあいだに生まれ、三歳で即位した安徳天皇も壇ノ浦で八歳の生涯を閉じる。この石塔は、江戸末期の天保十三年 (1842年)、このあたりの住人が、悲運の安徳天皇を偲び、祀って立てたものである。