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倉橋海道

多島海と絶壁が織りなす風光明な倉橋の西南海岸をあるく

若宮さんをあとにすると間もなく、音戸町から倉橋町となる。奈良時代末期である770年頃、大伴家持により編纂されたとされ、当時の和歌四千五百首が収録され ている「万葉集」によれば、現在、倉橋町となっている島の南側は長門島、音戸町となっている北側は波多見島とよばれていたことが推 察される。穏やかな海とされる瀬戸内海のなかでも音戸周辺の海だけはとりわけ潮の流れがはやく、波も多く見られたのではないか。

かつて長門島とよばれた倉橋町の西南海岸のみちは、中央部を縦断する宇和木トンネルが貫通してから疎遠になりがちである。しかし、標高491メートルの岳浦山をまわるようにつづく小高い海岸線は、長年、打ち寄せる波に刻み込まれてきた絶壁の造形美や西南に広がる多島海の美しさを楽しむことができる大変貴重なみちであり、このみちをあるくこととした。

対岸につづく江田島が見えなくなってくると、西南方面に広がる島々が視界にはいってくる。やがて善太郎鼻という岬が姿をあらわし、大向鼻、城岸鼻、さらには南に突き出した鳶ガ崎といったように美しい岬が続々と登場する。瀬戸内海一の透明度を誇るといわれるこのあたりの海の色は高い場所から みても鮮やかな青色をおびており、茶褐色の絶壁群と見事に調和して、独特の景観をつくりだしている。

木長鼻を過ぎ、緩やかな坂をくだってゆくと倉橋町の中央にそびえ立つ標高408メートルの火山とその足元に広がる桂浜が見えてくる。火山の山肌からは、50メー トルにもおよぶ巨大な岩がむきだしになっているが、これは倉橋特産の石である花崗岩の採石場である。この採石場でとれる花崗岩はほのかに桜色を帯びていることから「桜みかげ」という名で親しまれ、呉 海軍工廠のドックをはじめとして、国会議事堂の議院石や国立国会図書館の床材、宮島の参道、福岡市の天神中央公園の敷石などに使われている。

倉橋漁港を過ぎると桂浜にたどりつく。桂浜海岸の西端には、日本最古といわれる洋式ドック跡がある。近世まで和船は砂浜で建造されてきたが、倉橋では江戸時代の元文、寛保年間(1736~1743年)の頃、天然の入江を改良した船渠(ドック)が考案された。潮の干満を利用して和船を引き上げ、効率的に浸水させる船渠は、当時としては斬新な造船方法であった。明治期 における西洋の技術を取りいれた蒸気船の普及や船舶の大型化に伴い、明治十五年(1882年)、現在のものに大きく改良された。

桂浜周辺には、桂浜温泉館や温水プール、公民館、図書館、歴史民族資料館、造船歴史館などと比較的新しい施設が集中しており、家族で休日を過ごせるようになっているが、このたびは、歴史ある桂濱神社にむかうこととする。