美しい松林につつまれる白い海岸を見おろすことができる高台に桂濱神社がある。もともと海人を守る宗像三女神が祀られていたが、 室町期にこのあたりを治めていた水軍、多賀谷氏により、宇佐神宮の三神が勧請され、武将を祀る神となった。文明十二年(1480年)に建てられた本殿は、国内でも貴重な前室付き三間社流れ造りといわれる建築様式を持ち、国の重要文化財に指定されている。
神社の石段をくだり、巨大な鳥居がある松林を抜けると日本の渚百選にも選ばれた桂浜海水浴場となっており、海岸の中央には、ひときわ目立つ高さの「万葉集史跡長門島の碑」が海にむかって立っている。上段には「安芸国の長門の島にて船を磯辺に泊りて作る歌五首」と「長門の浦より船出せし夜、 月の光を観て作る歌三首」の八首が刻まれており、下段には、天平八年(736年)、遣新羅使が安芸の国、長門の島に泊まって詠んだ歌が刻まれている。
石走る 瀧もとどろくに鳴く蝉の 声をし聞けば都し思ほゆ
山川の 清き川瀬に遊べども 奈良の都は忘れかねつも
磯の間ゆ 激つ山川たえずあらば またもあひ見む秋かたまけて
恋繁み 慰めかねてひぐらしの 鳴く島影に慮するかも
わが命を 長門の島の小松原 幾代を経て神さびわたる
月よみの 光を清み夕凪に 水手の声呼び浦廻漕ぐかも
山の端に 月かたぶけば漁をする 海人の燈火沖になづさふ
われのみや 夜船は漕ぐと思へれば 沖辺の方に櫓の音するなり
これらの歌八首は万葉集十五巻の巻頭に載っているが、新羅国への使者たちが、各々別れを悲しんで詠んだ百四十五首のうち、この 浦にて詠まれたものであるとされている。海外へ渡航するにあたり、奈良の都を想う歌もあれば、日本の風土そのものを偲ぶ歌もある。郷土の大切さ、あるいは祖国の大 切さというものは、そのなかで生活している限りにおいてなかなか感じることができないが、外に出て、外の文化と接することにより、より濃厚に実感されるものであるということは、今も昔もかわらないのかもしれない。