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波多見海道

音戸町の東海岸をあるき、大浦崎や潮寺、清盛塚を訪ねる

倉橋島の東海岸を北上すると再び音戸町となり、やがて波多見という地区にはいるが、かつては現在の音戸町全体が波多見島とよばれ ていた。室町後期である1427年頃、この波多見島の領有権をめぐり、竹原小早川氏と野間氏が争ったという記録が残っている。その後、応仁の乱勃発の年である応 仁元年(1467年)、大内氏の仲介により、波多見島は東部の瀬戸島と西部の渡子島の二つに分けて治められるようになった。

波多見小学校を過ぎると大浦崎という岬があり大浦崎公園となっている。この大浦崎には戦時中に特攻基地が存在した。昭和十七年(1942年)、海軍により特殊潜航艇建造のために専門工場が建てられ、特攻兵器蛟竜や人間魚雷回天などがこの地で建造されている。 現在は、美しい海岸とキャンプ場などを中心とした公園に整備されており、特攻基地だったという面影はない。

大浦崎からしばらく北上すると御所の浦というバス停がある。長寛二年(1164年)、平清盛が音戸の瀬戸を開削したとき、この場所に仮御所を建てて工事監督をしたことから、この地が御所の浦とよばれるようになった。また、音戸の瀬戸の渦潮が激しく、船で通過できないとき、このあたりを避 難場所として潮待ちをしたことから、泊ともいわれる

隠渡という交差点から細い路地にはいり、山にむかって古道をのぼってゆくと、鬱蒼とした竹林を背負って梵潮寺という名の観音寺がある。この寺には、奈良時代に行基という僧が刻んだといわれる十一面観音菩薩像が祀られており、寺の裏の林のなかには十九基もの五輪塔がある。この五輪塔は平安 末期、源平合戦で敗れた平家一門のものであると言い伝えられている。

再び海岸線を音戸大橋にむかってあるきはじめた。橋の足元には、音戸の瀬戸開削工事を成功させた清盛の功績をたたえて、その供養のために建立された清盛塚があり、清盛塚の正面には「うずしお」という音戸観光文化会館がある。「うずしお」内部は、音戸の瀬戸の歴史がよく理解できる展示室や海の幸を食することができる食堂などがあり、会館の前には「音戸の舟唄碑」が立てられている。この碑には、日本三大舟唄のひとつである音戸の舟唄の冒頭が刻まれている。

古来より郷土に伝わる舟唄を大切にし、碑を築いて後世に語り継がなければならないという市民の意識の高さには感服せざるをえない。私どもは、音戸の舟唄の冒頭を記憶に留めながら、再び渡船「かもめ」に乗り込み、貨物船が生みだす大きな波にゆり戻されつつ、ゆっくりと美しき島を離れていった。