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台湾紀行Ⅱ

タイヤル族の故郷、鳥来郷を訪ね、高砂義勇兵慰霊碑を参拝

台湾の正式名称は中華民国であり、その最大の都市、台北へは広島空港からの直行便で二時間ほどとまことに身近な距離である。台湾の面積は、約三万六千平方キロメートルと日本の十分の一ほどの広さであり、人口はおよそ二千万人である。台湾には古来より、原住民族が住んでいたが、大航海時代である1544年にポルトガル人により発見された。

台湾滞在の最終日、私どもは台湾の原風景を探しもとめ、台北市街から二十キロほど南へ向かうこととした。台湾第一の都会である台北の喧騒から離れていくにつれて奥深い緑色の山々につつまれ、やがて風情ある乳白色の渓流が姿をあらわし、烏来(ウーライ)というもの静かな秘境にたどりつく。この烏来郷は元来、首狩族として有名なタイヤル族とよばれる高山民族の故郷であり、現在では、台湾一とされる八十二メートルもの落差を誇る滝、烏来瀑布を中心とした温泉観光地となっている。

烏来瀑布公園の高台には、先の大戦時、日本兵に志願し、日本兵としてフィリピンで日本人と共に戦い、戦死した高砂義勇兵の慰霊碑がひそやかにたたずんでいる。われわれは、烏来郷で出会ったタイヤル族の女性頭目にいざなわれ、高台にのぼってこの慰霊碑を参拝し、鎮魂の鐘をならした。まことに残念なことに、高砂義勇兵慰霊 碑に刻まれているはずの慰霊碑名や李登輝が揮毫したはずの「霊安故郷」(霊魂は故郷に眠る)などの文字は竹で覆い隠されている。

戦況が苦しくなりつつあった昭和十七年(1942年)、台湾陸軍特別志願兵制度が制定され、千名の募集人員に対し、四十万人もの台湾志願兵が殺到したといわれる。翌十八年のフィリピン攻略戦の第一次パターン半島攻略戦において、本間中将率いる陸軍部隊は多大なる損害を被った。密林に覆われた厳しい自然環境に直面した陸軍部隊は、勇猛果敢な台湾の山岳部隊、高砂族の起用を決断。軍部の要請を受け、高砂義勇隊や高砂挺身報国隊が編成され、台湾各地の山地で訓練を受けた後、フィリピンに赴いた。現地においては、日本の武士の如く、名誉を重んじ、任務遂行にあたって命を惜しまず勇戦する姿と現場での高い能力が評価されて同十九年からは正規兵として採用され、日本人にも勝る大和魂をもって各地で抜群の活躍をしたといわれる。

ひとつのエピソードがある。フィリピン戦場の最前線から食糧を調達するため、密林においても足が速い高砂義勇兵の一人が後方の補給基地に走った。なかなか戻ってこないため後方を探索すると、最前線陣地の目の前まで到達しながらも力尽きて餓死した義勇兵の遺骸が発見された。そしてその背中に背負われていた食糧には全く手をつけていなかったという。食糧を背負いながら、おのれが餓死するまでそれを 口にしないとはいったいどのような心境であろうか。強烈なる自己犠牲もさることながら、江戸末期にわが国で完成した武士道の根底にもある利他の精神、すなわち「仲間へのいたわり」や「おもいやりの精神」といったものが彼をそうさせたにちがいない。