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台湾紀行Ⅲ

高砂義勇兵慰霊碑移設のエピソードにふれ、日本国を考える

高砂義勇兵の奮戦も虚しく、圧倒的な物量を背景に戦争を推し進める米国の前に、戦況は悪化の一途 をたどった。昭和十九年(1944年)七月にサイパン島を占領した米軍は、まもなくここを基地として日本本土への空襲を始めた。昭和二十年三月から五月にかけての東京大空襲では関東大震災の二倍 の被害を出したといわれ、八月にはついに広島、長崎に原爆が投下された。

戦争終結段階において、高砂義勇兵は全滅に近い状況となった。この烏来郷からも百名以上のタイヤル族がフィリピンの戦場に赴いたが、生還した者はわずかに十数名だったという。生きのこった兵士も、軍事貯金に預けていた給料や軍人恩給を全く受けとることができなかった。戦後、日本が行うべきだったはずの高砂義勇兵慰霊碑建立でさえ、日本国としてはなにもできなかったのである。

かつてのタイヤル族女性頭目、周麗梅は多額の借金を背負って慰霊碑を建立。2003年に周麗梅が病死した後もそのご子息が慰霊碑を管理、運営してきた。ところが、2004年に慰霊碑の敷地を提供していた観光会社が倒産し、土地を更地にして売却する意向を固めて慰霊碑の撤去を要請してきた。 地元関係者は碑の移設を検討するも、千六百万円にもおよぶ移設費用の捻出ができず、台湾当局も地元自治体も移設する費用を負担する意思はないと表明。慰霊碑存亡の危機が迫った。しかし、この窮状を伝えた産経新聞の読者などから三千二百万円を超える義援金が寄せられ、われわれがいま訪れているこの場所への移設が成功した。2006年二月八日に開催された落成記念式典には李登輝前総統をはじめ、日台の関係者約百名が参列した。

この慰霊碑に「霊安故郷」(霊魂は故郷に眠る)と揮毫している李登輝前総統は、「日本人の善意が台湾に届き、台湾の英霊を追悼し、遺族を慰めた。慰霊碑には悲しい歴史を成長に切り替える力がある」と語り再建立をたたえた。われわれが台湾を訪れ、高砂義勇兵慰霊碑を参拝しているいま現在、李登 輝は逆に日本を訪れており、日本兵としてフィリピンで戦死した兄が眠る靖国神社を一両日中に参拝する予定となっているとのことであるが、なにか不思議な因縁を感じざるをえない。

タイヤル族の女性頭目のはなしによると、まことに残念なことに、昨年この地に慰霊碑が移設されて以来、この碑を参拝する日本人は極めて稀であるとのことであり、これを語る女性頭目の瞳はどこか憂いに満ちたものであった。近年、諸外国からODA大国とも揶揄され、金で物事を解決しようとする 体質が露骨になりつつあるわが国の現実に一抹の不安を禁じえない。いずれにせよ、われわれ日本人は、戦後から現代に至るわが国の繁栄が、日本民族と共に戦った数多くのタイヤル民族をはじめとする台湾原住民族の方々の尊い犠牲の上に成り立っていることをいま一度深く記憶に留めておくべきではないだろうか。