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大入海道

大入海岸をあるき、旧石器時代や平安時代の藤原資隆を偲ぶ

情緒豊かな音戸の渡船「かもめ」に別れを告げ、これまであるいてきた波多見地区やその後方に姿をみせる情島を望みながら美しい海岸線を再びあるきはじめた。広湾に堂々とうかぶ情島には火の釜古墳群があり、古墳時代から人々が暮らしていたとされてきた。ところが、平成十二年(2000年)に情島漁港近郊の果樹園から旧石器が多数出土されたことにより、遥か二万年前からすでにこの地域で最初の人々が生活していたことが明らかになったのである。極めて貴重な発見である。

二万年前の気候は現在より八度前後寒冷であり、山岳地帯に降った雨や雪は陸地に凍りついて海まで流れる水量が少ないため、海水位は現在より百メートルほど低かったと考えられている。現在の瀬戸内海の大半は水深百メートル以下であることから、当時は四国や九州とも陸続きであったと想定される。 いま望んでいる情島は旧石器時代の二万年前は山であり、その周辺の海は平原だったのである。このまま温暖化が進めば、この美しき海岸線もいつしか海の底に沈んでゆくのであろうか。

観音崎がある火山峠を越えると阿賀地区となる。阿賀の最南端に位置する冠崎とその北東に位置する大入には、その地名に古くからの言い伝えがある。仁和三年(887年)、中納言、藤原資隆が厳島奉幣の途上、瀬戸内海のなか でも当時難所として有名であったこの近海で遭難した。このとき藤原資隆の着けていた冠が流れ着いたところが冠崎とよばれるようになり、その亡骸が漂着した場所が「御入り」とよばれはじめ、これが三入とされたのち大入とよばれるに至ったと伝えられている。

平安歌人でもあった藤原資隆は、「時雨かと聞けば木の葉の降るものをそれにも濡るるわが袂かな」という歌を詠み、これが新古今和歌集に掲載されている。新古今和歌集は、元久二年(1205年)に後鳥羽上皇の命により、藤原定家、家隆らが編集した第八番目の勅撰和歌集である。いままさに、冠崎、大入という地名の由来を思いおこし、悲運の平安歌人が残した名歌を偲びつつ、瀬戸内の美しい海を眺めるものの、当時難所といわれた面影は全くなく、ただ静かに波打つばかりである。

しばらくあるくと大入のまちなみがみえてくる。大入においては、海岸線から横みちにはいりこんだ。やがて細いのぼり坂となり、鮮やかな朱色の建物が視界に飛びこんでくる。この神社こそ、先にふれた厳島奉幣使、藤原資隆を祀ったと伝えられる大入神社である。この大入神社は、まことに美しいた たずまいであり、地元の方々により手あつい奉納が行われているであろうことがうかがえる。大入神社境内から遠く東を眺めると白く霞んだ海の彼方に下蒲刈島を望むことができる。