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阿賀海道

阿賀漁港にてお漕ぎ舟にふれ、垣氏の古城龍王社を訪ねる

大入から北へしばらくあるきつづ けると松山とを往来するフェリーの発着港である阿賀港がみえてくる。かきの養殖地としても有名なこの界隈に漂うかきの香りに誘われ、数多くの木製漁船が係留されている情緒あふれる雁木に沿ってあるきつづけると、漁港に隣接して古寂びた納屋が不思議な存在感をみなぎらせてたたずんでいる。なにかにひき寄せられるように近づいてゆくと、ひときわ大きく色鮮やかな二艘の木製船が納屋から顔をのぞかせていることに気づくが、これこそがまさに、厳島管弦祭で有名なお漕ぎ舟そのものであった。

阿賀は古くから漁港として栄えていたが、江戸中期である元禄十四年(1701年)六月十七日、阿賀の漁師、岡野喜右衛門が宮島近海へと漁に出たとき嵐に遭遇した。この際、厳島神社の管弦祭で同様に遭難していた管弦船を江波の救助船と協力して厳島へ送り届けた。それ以来、阿賀と江波は毎年の管弦祭に管弦船を曳航するお漕ぎ舟の大役を奉仕することとなり、今日へと至っている。現在でも毎年旧暦六月十七日の二日前の大潮の夜、この阿賀港でお漕ぎ船出港の祭が開催され、優雅な舞を観ることができる。

阿賀の漁港から西方面に、兜のかたちをした小さな山がみえる。古くからある住宅街の小みちにはいり、急勾配の階段を一気にその山の中腹まで駆けのぼると、そこには遥か平安末期、屋島の合戦に破れ、この地へ落ちのびた平家の残党が、一門の冥福を祈って建立したといわれる観音像を祀る観音堂がある。源氏の追撃によりここへたどりついた平家の残党もついには滅び、その無念が残ったにちがいないが、これを鎮めるためにこのあたりの住民が観音堂を祀りつづけ、現在もその奉納がつづいている。

観音堂をあとにし、山沿いの小みちをあるいてゆくと、さらに小高い丘の上に鬱蒼とした蘇鉄などの木々に守られるようにして龍王神社がたたずんでいる。龍王神社の前身は室町時代の水軍、檜垣氏の居城、阿賀龍王城であったと言い伝えられている。毛利氏の台頭により、小早川隆景がこのあたりを知行することとなってからは城砦でなくなったと推察される。その後、現在に至るまでは、風神級長津彦命、雷神高麗命、水神団象女命を祀る龍王神社として地元住民によって大切に保存されている。

この龍王神社からは、阿賀から広へのまちなみとそれぞれの港湾を眺望することができる。この景観に接すると、ここが室町期に檜垣氏の拠点とされた阿賀龍王城であったことが容易に理解できる。檜垣氏は、「和庄海道」でふれた山本氏や「警固屋海道」でふれた警固屋氏とともに呉衆とよばれ、南 北朝の動乱期から戦国時代中期に至るおよそ二百年間、阿賀、広界隈を知行し、大内水軍の一翼を担ってしばしば活躍している。心地よい潮風の恩恵にあずかり、白く霞んだ海の彼方を望みつつ、呉衆として名を馳せた檜垣氏を偲んだ。