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広海道

黒瀬川流域の広界隈をあるき、江戸期の開発と遥か縄文時代を偲ぶ

阿賀のまちから国道185号線を東へむかうと、やがて黒瀬川をまたぐ広大橋がみえてくる。あえてこの橋をわたらず、橋手前の先小倉の交差点から川に沿って上流へとあるいた。横路と大広の境界にある鬱蒼とした丘の上には、天正三年(1575年)に勧請されたという初崎神社がある。天正三年といえば、戦国時代の末期であり、長篠の合戦で織田、徳川連合軍が武田勝頼を破ったという年である。この初崎神社からは、弥生時代中期のものと推定される弥生式土器の破片や古墳時代の土師器が出土している。

また、西横路の荒神ヶ丘にかつ て存在した円墳からは人骨、槍、刀が入れられた石棺が発見されたばかりでなく、七世紀に建立された恵現寺やエゲン台遺跡からは弥生後期のものと推定される弥生式土器の破片が出土している。さらに、広町芦冠の声冠遺跡からは、縄文後期の土器や板状土偶、古墳 時代の土師器などが出土しているのである。現在、広の中心街を形成している平野部は主に江戸時代に新田として埋め立てられた土地であるが、この黒瀬川西岸流域や東岸の上流域においては、遥か縄文時代より、私たちの先人が脈々と生活を営んでいたということがよくわかる。

常盤橋をわたると広島国際大学の壮大なキャンパスが見えてくる。この大学の周辺が古新開であり、さらに東へあるいてゆくと中新開、大新開といったように新開とつく地名が数多くみられる。これら新開と名のつく場所は、江戸時代に新田として開発された土地であることを意味している。

江戸時代初期である元和年間(1615~1623年)に「広村に杭本新開築調」という記録が残されているが、これは現在の広杭本町を指すものであろう。寛永年間(1624~1643年)に中新開築調との記録があり、慶安年間(1648~1651年)には古新開築調とある。元禄二年(1689年)には広村の庄屋、大林源蔵による大新開堤防潮留工事が完成したとの記録が残っているが、この工事は、道路、水路、樋管、水溜の設備を整えた非常に高 度な事業であったと伝えられる。さらに、江戸末期である文化三年(1806年)には文化新開(武兵 衛新開)、文化六年(1809年)には末広新開、文化八年(1811年)には横路新開が続々と築調されている。

広のまちなみをあるきながら、稲作がまだ導入されていなかった縄文時代、森の木の実や小動物、海の魚貝類などを採取しながら生活を営んできた私たちの祖先や、江戸時代を通じて新田を開発しつづけてきた先人たちの情熱を想い描いた。広小西口の交差点から国道375号線を南へ向かうと広交差点が あり、さらに長浜方面へあるいてゆくと、名田という地区に大林源蔵が手がけた大新開堤防潮留工事の際に築かれ、宝暦九年(1759年)に造りかえたとされる樋門が岩樋水門跡として残っている。