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土佐のみち

土佐の国、桂浜をあるきつつ、長曽我部元親や坂本龍馬を偲ぶ

江戸時代に港町として栄えた呉市豊町御手洗に幾度となく立ち寄っている幕末の英雄、坂本龍馬を偲び、その故郷である土佐の国、高知を訪ねることとした。高知においては龍馬が少年期によく遊んだといわれる桂浜に立ち太平洋を望んだ。太平洋は普段、私たちが目にする瀬戸内海とは異なり全て が大きい。広い砂浜やこれに打ち寄せてくる波が激しく、視界にはいる海面や水平線の彼方に広がる空も果てしなく大きい。この景観に接すると、この地から戦国期に長曽我部元親、幕末に坂本龍馬といった日本人としては桁外れに型破りな英雄が出ていることが容易に理解できる。

長曽我部元親は、天文八年(1539年)に土佐の豪族の家に生まれた。天文六年(1537年)生まれの豊臣秀吉とは二歳違いで ある。この長曽我部元親は一代にして一郡の領主から土佐一国を制し、四国全土を征服して京を目指す勢いをみせた豪傑である。しかし元親が死んだ翌年、その家督を継いだ盛親は、関が原の合戦で石田三成について敗北。徳川家康に味方した山内一豊が土佐の守として入部し、長曽我部家はあとかたもなく歴史から消え去った。このため、土佐の国は江戸期を通じて、山内家の上士と長曽我部残党の下士という、武家社会のなかでもとりわけ厳しい身分社会が形成されるといったわが国でも特殊な文化背景を持った。江戸時代を通じてこの下士たちにより培われてきた権力への硬質な批判精神というものが、幕末、吉村虎太郎や坂本龍馬といった逸材を生み出し、現在にも色濃く残されているのではないだろうか。

坂本龍馬は、天保六年(1835年)に郷士という比較的裕福な下級武士の家に生まれた。嘉永六年(1853年)、十九歳のときに剣術修行のため江戸の千葉道場へ入門するまでこの地で育った。江戸では勝海舟や大久保一翁、松平春嶽といった幕臣や大名たちと交わることにより、国のあり方を考えるようになる。その後、当時死刑にあたいする重罪であった土佐藩の脱藩、日本史上初の株式会社である亀山社中の設立など当時の常識を覆す偉業を断行。さらには倒幕維新を決定づけた薩長同盟を実現させながらも、翌年、薩長が武力による倒幕を進める気配を感じると、大政奉還案を後藤象二郎を通じて土佐藩から建白させ、世界史上でも稀なる無血革命を導いた。この二点において、坂本龍馬が維新実現の第一人者とみなされているが、大政奉還の一ヵ月後、京都の近江屋で暗殺された。

南に広がる大海を望み、この海原を眺めつつ様々な想いを馳せたであろう長曽我部元親や坂本龍馬を偲んだ。人間というものは成人すると自己の能力の限界というものを悟り、その枠内で生きてしまう。年をとり経験を重ねるに伴い、失敗しないよう要領よく動くようになり、その結果小さくまとまる のではないか。しかし、この地に生まれた英雄たちはいかなる状況でも自分のなかに限界を設定せず、それぞれの時代の既成概念にとらわれない自由な発想と実行力で 数々の艱難を乗り越え、歴史を動かしたといえるであろう。