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長浜海道Ⅰ

長浜の住蓮寺を訪ね、若き日の宇都宮黙にふれる

広名田から南にあるきつづけると潮の香りにつつまれ、やがて青き海原が姿をあらわし、広長浜にたどりつく。この長浜は、幕末の初期より倒幕の主動力であった長州藩の思想的原点である吉田松陰に多大なる影響を与えたといわれる宇都宮黙霖の故郷である。もし、宇都宮黙霖という勤皇僧がこの地 に誕生していなかったなら、明治国家の成立は数年遅れていたか、あるいは独立国家として成立しえなかったにちがいない。宇都宮黙霖は日本史上、大変重要な人物である。この安芸国の黙霖が長門国の松陰に伝えた大和魂を押えない限り、近代日本史の本質が理解できないのではないかと思えるほど、 この二人の関係については語れば尽きない観がある。

長浜桟橋バス停前にある入江神社横の細い路地をあるいてゆくと住蓮寺という浄土真宗本願寺派の寺がある。住蓮寺は、豊臣秀吉が天下統一の総仕上げとして北条氏の本拠、小田原征伐を実施した天正十八年(1590年)に建立されたという呉市のなかでもとりわけ歴史の古い寺であり、宇都宮黙霖が誕生した寺である。このたびは、住蓮寺十六世現住職にあたる俊徳さんを訪ね、宇都宮黙霖の波乱万丈の生涯や吉田松陰との関係などについて興味深いお話をうか がうことができたばかりでなく、黙霖が松陰に宛てた最後の手紙の写しなど大変貴重な資料を見せていただくことができた。

宇都宮黙霖は江戸後期である文政七年(1824年)にこの住蓮寺で生まれ、明治三十年(1897年)に呉市長ノ木町の沢原為綱方にて七十三年の生涯を終えるが、その人生は大変不遇な出生から始まっている。父は中黒瀬村西福寺の三男竣嶺で、長浜にある石泉僧叡の塾にはいって修行中であった。

その竣嶺と長浜の旧家、下兼屋宇都宮作兵衛の娘、お琴との間に愛が芽生えてできた子供が黙霖であ る。峻嶺は修行の身であったことから結婚を認められず実家の黒瀬村西福寺に帰され、お琴は姉の嫁ぎ先であったこの住蓮寺で黙霖を出産した。

黙霖は生後半年間、母の手で育てられたものの、父に引き取られたり、養子に出されたりと不遇の幼年期を過ごした。八歳の頃に手習い修行のため長浜に帰され、ようやく母のもとで養育を受けることとなったが、不倫の子と日陰者あつかいされて育ったことが影響して大変乱暴な少年であったと伝えられている。これを見かねた黙霖の叔父にあたる専徳寺の常諦から大学の素読を授かって勉学の道を奨められ、これを機に十有五にして学問を志した。

天保十二年(1841年)、黙霖十八歳のときには、孟子の講義を学び、太平記や平家物語などの軍記ものを数多く読んだ。十九歳のときには賀茂郡寺家村(現在の東 広島市西条町寺家)の儒学者であり医師でもあった野坂由節の恭塾で春秋左氏伝を学び、二十歳になってからは蒲刈弘願寺の住職、圓識の樹心斎塾で仏教全般を学んだという。さらにこれらを契機として、全国四十数カ国にもおよぶ長き遊学の旅路が始まることとなった。