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長浜海道Ⅱ

宇都宮黙と吉田松陰の関係から明治維新を考える

宇都宮黙霖は、二十歳を過ぎてから、遊学中の大阪で大病を患い長浜に帰って療養するが聾唖となり、その後は筆談を用いることとなった。弘化二年(1845年)、二十二歳の夏に得度して本願寺の僧籍にはいるが、この頃から国学研究を深めて勤皇論を唱えはじめたという。その後四十数カ国に足 跡を残して識見を広めつつ、千人ともいわれる漢学者や国学者と議論を展開し、勤皇思想を固めた。なかでも知行合一の実践哲学を奨励する陽明学の影響を多分に受け、嘉永五年(1852年)に幕府の老中、阿部正弘に「尊王抑覇」の論稿を送ったため、幕府や広島藩から危険人物として追われる身と なった。

黙霖は、安政二年(1855年)、萩に赴いた際、米国への密航を企てて失敗し、野山獄にとらわれていた吉田松陰が攘夷思想の必要性を説いた「幽囚録」を読んで感銘を受け、周防の僧、月性の紹介で松陰と文通を始めた。文通は一年以上二十三通におよび、当時急進的であった尊王思想や倒幕の必要 性を訴え続けたことで、松陰の考え方を極端に変えている。松陰は当時、攘夷思想は持っていたが幕府に対して弱腰外交を諌める姿勢であったのに対し、黙霖は徹底して倒幕を主張したそうである。恐るべき先見の明といえるであろう。この住蓮寺には、黙霖が松陰に宛てた十四メートルもの長さの最後 の手紙の写しが大切に保存されている。

その後、宇都宮黙霖は、吉田松陰や頼三樹三郎、梅田雲浜などと交わって勤皇をとなえたとして、幕府の大老、井伊直弼による安政の大獄に連座するが、僧籍にあったため唯一釈放されている。

明治維新成立後は、湊川神社の宮司ななどに任じてから長浜に隠居。明治三十年(1897年)に呉市長ノ木町の沢原為綱方にて七十三年の生涯を終えた。この住蓮寺周辺には、黙霖が少年期に学問を志した専徳寺があり、さらに黙霖の父、峻嶺が修行した石泉塾が県指定史跡「石泉文庫」として残っている。

文通が続いていた時期、松陰は松本村に蟄居し、粗末な小屋「松下村塾」で、のちに倒幕維新の英雄とよばれる久坂玄瑞や高杉晋作、伊藤博文といった少年たちを相手に細々と種をまき始めていた。黙霖からの影響を受けた松陰によりまきつづけられた種は、やがて長州藩を中心に旋回するすさまじい勢いの尊皇攘夷運動に成長し、あの奇跡的な革命として開花するのである。この明治維新、明治国家の成立がもし数年でも遅れていたならば、植民地主義が台頭していた当時の世界情勢のなかで、わが国は独立国家たりえたであろうか。

住蓮寺をあとにした私たちは長浜の海岸に立った。そしてこの広く澄みわたる海原を眺めながら、時勢が沸騰する以前より、吉田松陰という危険人物に才能を見出し、勤皇思想と倒幕の必要性を説き続けた黙霖という人物に想いを馳せた。萩の松下村塾が「維新胎動の地」であるならば、この長浜の住蓮寺はまさに、「維新の聖地」といえるのではないだろうか。