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長門のみちⅠ

宇都宮黙が影響を与えた吉田松陰誕生の地、萩を訪ねる

広長浜出身の宇都宮黙霖との二十三回にもおよぶ論争の結果、勤皇思想と倒幕の必要性を悟るに至った吉田松陰という人物を考えるため、一路、萩を目指した。室町時代に西国一の大名といわれた名門、大内氏の首都山口市から萩往還を北上すると萩の入口に萩往還公園があり、吉田松陰をはじめとして高杉晋作、久坂玄瑞など維新の礎を築いた英雄たちの銅像が出迎えてくれる。萩市内にはいり、まず毛利元就の孫、輝元がおよそ四百年前に築城した萩城跡を訪ねた。

安芸の国、吉田(現在の広島県高田郡吉田町)の一国人領主にすぎなかった毛利氏は、明応六年(1497年)に誕生した元就の登場により急速に勢力を拡大した。元就は、陶晴賢の反乱で長年臣従してきた大内氏が滅びると、弘治 元年(1555年)の厳島合戦で 陶晴賢を討ちとり、大内氏の広大な領土を支配下に置いた。さらに長年領土を脅かされてきた出雲の有力守護大名、尼子氏をも永禄九年(1566年)に滅亡させ、中国地方の統一を果たした。これに伴い、毛利氏は瀬戸内の島々の水軍をことごとく傘下におさめ、大陸との貿易にも乗り出すなど、まさに全盛期を迎えた。

元就が元亀二年(1571年)に七十四年の生涯を閉じた後、織田信長の天下統一を目指す動きが活発になると毛利氏はこれに対抗。村上水軍や呉衆など瀬戸内海の水軍を駆使して信長と戦う石山本願寺を強力に支援している。このとき水軍の船につけられていたといわれる鐘が音戸の法専寺に今なお残っている。信長が本能寺で倒れた後、豊臣秀吉が政権を樹立すると毛利氏はこれに従い、領土の一部を削られながらも百十二万石の領地を安堵される。元就の孫である当主、毛利輝元は、徳川家康に次ぐ五大老の次席として、豊臣政権のなかでも重要な位置を占めるに至った。

しかし秀吉の死後、関ヶ原の合戦が勃発すると、毛利輝元は石田三成率いる西軍の総大将にかつぎ出されたあげく、徳川家康率いる東軍に敗北。毛利家は取り潰しこそ免れたが、全領地を没収された上で周防、長門の二カ国三十七万石を与えられ、広島城から萩へその首府を移し、この城が築かれた。 このとき、安芸国から長州についてきた膨大な家臣団が商人や農民となり、貧に耐え、江戸期を通じて毛利家を支えてきたことが、幕末、長州藩が倒幕維新の主導力となった遠因となっているのではないだろうか。

萩城跡をあるいた後、これに隣接し、日本海の荒波が打ち寄せる菊ヶ浜や江戸期の風情が濃厚に残る旧城下町をあるいた。旧城下町東には、吉田松陰が宇都宮黙霖と文通を始めたときに入獄していたとされる野山獄跡がある。ここで松陰は囚人を相手に孟子の講義をしたとされ、後にこれが講孟余話としてまとめられている。松陰はこの孟子の「至誠にして動かざる者、未だこれ有らざるなり」という言葉をこよなく愛し、座右の銘として生涯を貫いている。