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長門のみちⅢ

吉田松陰誕生の地、団子岩から指月山と日本海を望む

松下村塾発祥の地である玉木文之進旧宅から、文之進が農作業をしながら松陰を教育したであろう棚田を右手に眺めつつ急勾配の坂をのぼってゆくと、五分ほどで団子岩という丘にたどり着く。ここは吉田寅次郎矩方(松陰)が誕生した地である。松陰は、長州藩の下級武士であった杉百合之助の次男として、文政十三年(1830年)八月四日、この地に生まれた。杉百合之助の弟で、若くして亡くなった吉田大助の家督を六歳で継ぐまでの幼年期をこの地で過ごしている。現在、松陰が生まれ育った家そのものは存在しないが、建物の間取りや敷地内にある産湯の井戸が大切に残されている。周囲の森を散策すると幼年時代の寅次郎 が暮らしてきた日常を身近に感じ ることができる。

この団子岩からは、萩の城下町が一望できるばかりでなく、萩城跡がある指月山とその背後に広がる日本海を見渡すことができる。杉家では、どんなに貧しくとも風呂だけは毎日沸かし心身の清潔を維持したといわれる。この美しい景観のなかで朝夕を暮らしてきた幼年期の松陰を偲ぶと、この時期に育った環境や景観美がその人の人格や感性、思想に大きな影響を与えるという説にもうなずくことができる。松陰生誕の地に隣接して、吉田松陰、高杉晋作、玉木文之進たちの墓所がある。文之進は萩の乱のあと、教え子である前原一誠らが乱に加担したことの責任を取ってこの地で切腹している。墓所を抜けて坂をくだってゆくと、毛利家偶数藩主の菩提を弔う東光寺があり、東光寺から小さな川に沿って細いみちをあるいてゆくと再び松下村塾にたどりつく。

松陰は二十代の前半を九州、江戸、東北への遊学についやし、諸国の識者から国のあり方についての実学を吸収した。嘉永七年(1854年)三月、下田踏海に失敗し江戸伝馬町の牢獄にはいった松陰は、同年十月、萩に移送され 野山獄にいれられる。そして翌安政二年(1588年)五月から杉家の一室、幽囚室での生活が始まる。杉家の納屋を松下村塾としたのは安政四年(1857年)十一月であり、松陰が松下村塾で指導したのは、再び野山獄にいれられ る安政五年(1858年)十二月までの一年間でしかない。その後、安政六年(1859年)五月、野山獄から再び江戸の伝馬町に送られて、同年十月二十七日に処刑されることとなるのである。

松下村塾周辺を散策しながら、周囲から危険人物とみなされていた松陰と親に隠れてこの塾に通い詰めたといわれる少年期の高杉晋作を想い描いた。この粗末な小屋での講義は多くの少年の意識変革を促し、松陰の死後、彼の後継者たる高杉晋作を中心に狂気に満ちた、すさまじい勤皇攘夷運動に成長す る。勤皇か佐幕か、三百諸藩が自藩の存続を前提に揺れ動いていた幕末の初期から勤皇倒幕と旗幟鮮明であった長州という藩が時勢を旋回させなければ、維新は到しえなかったにちがいないが、そこには、革命の実行者たる高杉晋 作とその思想的原点に立つ吉田松陰がいたことを忘れてはならない。そしてその松陰に決定的な影響を与えた宇都宮黙霖がわが郷土、呉に生まれ育ったことを私たちは誇りに思うべきであろう。