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江戸遊就録Ⅰ

吉田松陰終の地、江戸伝馬町処刑場跡を訪ねる

東京に赴いた際、吉田松陰終焉の地である日本橋小伝馬町の十思公園を訪ねた。安政六年(1859年)五月に萩の野山獄から江戸へ送られた松陰は、この地にあった牢獄に入り、同年十月二十七日に処刑されるまでの人生最後の時を過ごした。のちに、伊藤博文をして「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」といわしめるほどの激烈な革命家に成長する高杉晋作はこの時期、日本の最高学府であった昌平黌の学生として江戸におり、松陰の身のまわりの世話に奔走した。晋作は死に直面した松陰と幾度か手紙を交わしているが、晋作からの「男子たるものいつ死ぬべきか」という質問に対して松陰は次のような手紙を書いている。

貴門に曰く、丈夫死すべき所如何。
僕去冬己来、死の一字に大いに発明あり。李氏焚書の功多し。其の説甚だ永く候へども約して云はば、死は好むべき にも非ず、亦悪むべきにもあらず。道尽き心安んずる、便ち是死所。世に身生きて心死する者あり、身亡びて魂存する者あり。心死すれば生くるも益なし。魂存すれば亡ぶるも損なきなり。
死して不朽の見込みあらばいつでも死すべし。
生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。

当時二十一歳だった高杉晋作は、この後の八年間で、史上類型のない革命家として日本史に名を刻み、「おもしろきこともなき世をおもしろく」という辞世の句を詠んでその短い生涯を全うするが、この八年間の彼を突き動かしてきた何事かをこの手紙から読みとれなくもない。

いよいよ死を覚悟した松陰は遺書を二通残した。十月二十日に書いた永訣の書と十月二十五日に書き上げた留魂録である。永訣の書は「親思ふこころにまさる親ごころけふの音ずれ何ときくらん」を詠みこんだ家族宛の遺書であり、留魂録は塾生などに宛てたもので、「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬと も留めおかまし大和魂」に始まり、取り調べの様子やわが国の将来を思う気持ちが静かに語られている。十月二十七日の朝、幕府の評定所は松陰に死罪を宣告。その後、獄舎の廊下で袴紋付のまま縄をかけられ、獄内の刑場にひきだされ処刑された。享年三十歳、現在の年齢で二十九歳の若さであった。この日、江戸は見事な晴天で富士山まで見えたと伝えられている。

この日本橋小伝馬町の処刑場跡を訪ねた日、東京の空は朝から厚い雲におおわれていたが、不思議なことにこの地にたどりついて間もなく、急激に雲がながれて太陽が姿をあらわし、青空が広がった。その晩年、「思想を維持する精神は狂気でなければならない」と語っ た松陰が危険思想家として非業の最期を遂げた、ある意味、国家権力というものの腐った部分を感じさせる場所ではある。しかし、この一瞬にして広がった青空は、松陰の霊魂が即に自己の思想を完結させて、現世に未練を残していないことを物語っていたのかもしれない。