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江戸遊就録Ⅱ

吉田松陰をはじめ祖国に殉じた英霊を追悼するため靖国神社を参拝

吉田松陰終焉の地に別れを告げて、岩本町から都営新宿線に乗り込み、九段下で下車した。靖国通りの緩い坂道をのぼってゆくと靖国神社社号標と二十五メートルの高さを誇る第一鳥居があり、鳥居をくぐりぬけると明治二十六年(1893年)に日本初の西洋式銅像として建てられた大村益次郎銅像がその太い眉にひそむ眼で東方を睨みつつ出迎えてくれる。松陰とも同郷の長州出身である大村益次郎は近代日本陸軍の創設者といえる人物であり、この靖国神社の前身である東京招魂社の創建に力を尽くした。

大村益次郎は、文政七年(1824年)、長州藩山口の医師の子として生まれた。緒方洪庵の適塾で蘭学を学び、嘉永六年(1853年)には宇和島藩の伊達宗城に招かれて軍艦建造などにたずさわった。その後、蕃書調所教授方手伝、講武所教授として幕府に出仕。ようやく大村の存在に気づいた長州藩が万延元年(1860年)に宇和島藩から召還し、長州藩兵学者雇となった。やがて長州藩軍政の中枢を占めるようになり、四境戦争では全作戦を指揮。 続く戊辰戦争では上野の彰義隊討伐戦、北越、東北戦線での鎮撫戦において軍事作戦を包括して指揮した。

これらの軍功により、大村は初代兵部大輔に就任し、国民皆兵思想に基づく徴兵令構想を含む軍制改革に取り組んだ。国内の反乱鎮圧のための拠点である鎮台制を導入したのも大村であった。明治天皇の意向を受け、戊辰戦争での戦没者の御神霊を祀るべく東京招魂社の創建に尽力するも、この招魂社創建の年である明治二年(1869年)、京都三条木屋町の旅宿で不平士族に襲われ、搬送された病院で二ヶ月後に永眠した。

その後、この招魂社は明治十二年(1879年)に靖国神社と改称。別格官幣社に列せられて、嘉永六年(1853年)以来の維新殉難者も合祀されるが、これに吉田松陰や高杉晋作、坂本龍馬などの幕末の志士たちが含まれている。神門をくぐりぬけると拝殿があるがこのたびは久しぶりの訪問であり本殿を参拝した。吉田松陰などの維新前後の殉難者を始め、西南戦争、日清戦争、台湾出兵、北清事変、日露戦争、第一次世界大戦、満州事変、支那事変から大東亜戦争に至るまでの戦没者が御神霊としてここに祀られている。

本殿を参拝した後、遊就館を視察した。この遊就館は明治十五年(1882年)に創立され、古代中国の思想家荀子の言葉である「遊ぶに必ず士に就く」をその名の由来とする。建物は数年前に全面改築されているが、わが国の近代史が時系列的によくわかる設えとなっており、愛する祖国や郷土、家族 のために尊い命を捧げられた英霊の遺品や思いに交わることで、日本人として最も大切な何事かを学ぶことができる貴重な施設であることに変わりはない。数年前に比べて若い来場者が増えている観があり、戦後六十二年を経て、ようやくわが国の未来に一筋の光がさしつつあることを感じた。