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仁方海道

安芸の小須磨と評された美しい海岸線をあるき、江戸期の仁方を偲ぶ

長浜から海岸沿いのみちをあいてゆくと江戸時代に大山衹神社より伝えられたとされる神楽で有名な小坪地区となり、やがて磯神社という風情のある神社にたどりつく。この磯神社の棟札には、天正二年(1574年)にこの地の 武将、白井縫殿助が社殿を改修したと記されている。さらにその境内には、縫殿助が織田信長と争う石山本願寺を支援する毛利軍の一翼を担って出陣した際、戦勝祈願のため寄進されたと伝えられる、全国でも珍しい舟形石の手水鉢が呉市有形文化財として保存されている。

かつてこのあたりには安芸の小須磨と謳われるほどの松につつまれた美しい海水浴場が存在し、今なおその面影が濃厚に残されている。またこの地は、江戸中期の宝暦九年(1758年)頃よりはじめられたとされるボラ漁でも有名である。これは戸田のボラ網漁とよばれ、春から夏にかけて瀬戸内海の東部から回遊してくるボラの大群を三百メートルにもおよぶ長い網で包みこむように引きあげるというものである。この界隈の住人が総動員で協力し、一網で五万匹以上のボラを採ったという伝説も残っている。江戸末期、呉のまちは漁網製造の一大拠点として栄えた側面をもっているが、そのことをうかがわせる逸話である。

江戸時代から伝わる豪快な戸田のボラ網漁を想像しつつ、美しい海岸線を再びあるきはじめた。目の前には、海の色彩と見事に調和する薄青色の美しい安芸灘大橋が見える。この安芸灘大橋は、平成十二年(2000年)に開通した川尻町小仁方と下蒲刈島を結ぶ橋であり、橋長1175メートル、主塔高さが海抜128.5メートルを誇る巨大な吊り橋である。

橋とその背後に連なる諸島群の景観を眺めながらあるきつづけるとやがて仁方港がみえてくるが、この仁方港の桟橋周辺はやすり工業団地となっている。この地区におけるやすり製造の起源は大変古く、江戸末期である天保年間 (1830~1843年)に始まったと伝えられている。百八十年にもおよぶ長い伝統と蓄積された技術を背景に、今なお日本最大のやすりの産地として、わが国の産業の根幹を担っている。

仁方錦町を小さな川に沿ってあるいてゆくと仁方小学校があり、仁方本町となる。仁方本町の細いみちをはいってゆくと、明治八年(1875年)に相原御三家により創業されたという相原酒造の大変美しい白壁の建物が威厳をもってたたずんでおり、古きよき仁方のまちなみを今に伝えている。さらに浄徳寺から左にはいって岩花橋という小さな橋をわたると八岩華神社という一風変わった名前の神社にたどりつく。もともとこのあたりには岩倉神社、八幡神社、下華田神社という三社があったそうであるが、明治四十一年(1908年)にこれらを合祀し、一文字ずつ社名をとって八岩華神社となった。神社の境内には、呉市の天然記念物に指定されており、樹齢四百年を越える大きなクスノキが江戸時代から現代に至る仁方のまちなみを静かに見守りつづけている。