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安浦海道

歴史民俗資料館で南薫造を偲び、安浦港の武智丸を望む

中切の交差点から旧道にはいり、安浦駅にむかって続く旧道を進んでゆくと「南薫造記念館」と書かれた大きな看板が立つ歴史民俗資料館がある。ここは、近代日本洋画史の巨匠といわれ、明治から昭和にかけて数多くの優れた作品を残した世界に誇りうる画家、南薫造(みなみくんぞう)の生まれ育った家である。

南薫造は、江戸情緒が多分に残っていたであろう明治十六年(1883年)、この家(安浦町内海)に生まれ、地元の内海尋常小学校高等科、広島県立第一中学校(現・国泰寺高校)を経て、東京美術学校(現・東京芸術大学)を卒業した。三年間のイギリス留学の後、明治四十三年(1910年)、二十七歳のときに白樺社主催の南薫造、有島壬生馬滞欧記念絵画展覧会を開催。詩集「道程」で有名な高村光太郎をして「白百合の花のような絵画がいま並んでいる」といわしめている。

大東亜戦争末期の昭和十九年(1944年)、六十一歳で郷土の安浦へ疎開し、同二十五年に安浦町の自宅にて永眠したが、永眠する前年に描かれた作品「夕日」には、瀬戸内海にうかぶ二艘の小舟とその背後の島に沈みゆく夕日といった呉ならではの美しい景観が見事に描かれている。この安浦町歴史 民俗資料館は、江戸後期に建築された情緒ある母屋や米蔵に南薫造の作品や農耕用具、生活用具など、当時の生活を偲ぶことができる資料が多数展示されているばかりでなく、南薫造のアトリエがそのままの状態で残されている。

安浦町歴史民俗資料館から安浦駅周辺のまちをぬけて進んでゆくと、西三津口という交差点があり、これを過ぎると間もなく、安浦漁港が視界にはいってくる。この安浦漁港は、世界でも珍奇なコンクリート製の船がその港の入口を守る防波堤となっているという、まことに風変わりな港湾となってい る。

戦時中、鋼材不足を補うため、舞鶴海軍工廠の林邦雄海軍技術中佐がコンクリート船を設計、研究の結果、本部にてこれが採用された。大阪府土木会社の武智昭次郎により、高砂市の造船所にて昭和十九年(1944年)から同二十年にかけて四隻のコンクリート船、武智丸一号から四号までが建造され、北九州から大阪への石炭の輸送などに活躍した。

一方、大正期からカキの養殖や漁業の盛んな地として有名であった安浦は、台風が来るたびに漁港が多大なる被害を受けたことから、昭和二十五年(1950年)、このコンクリート船のうち二隻を買い取り、港の入口に据えた。鋼材不足という逆境の時代に活躍した二隻のコンクリート船、武智丸一号 と二号は、その後も防波堤と姿を変えながらも、半世紀以上にわたってこの安浦港を守りつづけているのである。