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三原のみち

三原城跡を訪ね、毛利家の中国統一に尽力した小早川隆景を偲ぶ

三原に赴いた際、三原城跡を訪ねた。三原城は、吉川元春と共に毛利両川の一翼を担った小早川隆景が永禄十年(1567年)に築城した日本三大水城のひとつである。この城は沼田川河口の三原湾の大島、小島を利用して築かれた海城で、南の瀬戸内海にむかって広がる台形をなした海の要塞であった。 瀬戸内海にうかぶ島々の水軍をことごとく傘下に治め、毛利氏の中国統一に貢献した隆景の居城にふさわしい城である。江戸時代になってからは、広島城に入城した福島正則や浅野氏の支城としての役割を果たし、明治中期の鉄道建設により本丸跡が貫通され、現在では天守台とそれを取り巻く三方の 濠と駅の南側の船入櫓の石濠、本丸中門跡、臨海一番櫓跡の石垣と濠を残すのみとなってしまった。

小早川隆景は天文二年(1533年)、毛利元就の三男として吉田郡山城に生まれる。元就には九人の男子がいたがその策略家としての才能を最も濃厚に受け継いだのが隆景であるといわれている。十二歳のとき毛利氏が臣従していた大内義隆の斡旋により竹原小早川家の養子となり、天文十九年(1550年)には沼田小早川家の当主の妹を娶り小早川本家を相続する。この小早川家は源頼朝の側近、土肥実平の子、小早川遠平が安芸国沼田荘の地頭職を与えられて以来の名家である。元就の嫡男、隆元亡きあと、同様に吉川家に養子にはいってその家督を継ぎ、山陰方面を担当した次男吉川元春とともに 「毛利両川体制」の一翼を担って、隆景は山陽道を担当。瀬戸内海の水軍を統率して毛利氏の中国地方統一に力を尽くした。

天正十年(1582年)、本能寺の変が勃発すると、備中高松城に毛利家の勇将、清水宗治を水攻めにより閉じ込めていた秀吉は、この事実をつかみ、毛利の外交担当僧であった安国寺恵瓊を通じて急遽和睦をとりまとめ、中国大返しに成功。明智光秀を山崎の合戦にて破った。このとき、吉川元春は強行に秀吉軍の追撃を主張したそうであるが、小早川隆景は「一旦和議を結んだからにはここで追撃するのは義に反する」として元春を説き伏せた。その後、秀吉は天下人となり、隆景は秀吉から「中国ものの律儀」といわれるなど厚い信頼を獲得。五大老の一人に選ばれた。元春死後も元就の嫡男、隆元の遺児で毛利家の家督を継いだ輝元を終生補佐し、毛利家を支えつづけている。

秀吉に待望の秀頼が誕生すると、秀吉は正室、北の政所の兄、木下家定の五男で三歳のときに自らの養子とした秀秋をいまだ嫡子のなかった毛利輝元の養子とすべく画策する。これを知った隆景は既に元就の九男、秀包を養子に迎えていたが、毛利主家を守るために秀秋を自らの養子に迎えたという。 隆景は、関が原の合戦の三年前に病のため没するが、その家督を継いだ小早川秀秋は、当初西軍として参陣するも途中寝返って東軍に加担した。このことが、西軍敗北の主要因となる。合戦後、秀秋は備前、美作を与えられ、岡山城に入るが、その二年後に二十一歳で怪死し、嗣子なく小早川宗家は断 絶するのである。