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帯広紀行

帯広を訪ね、帯広開拓の先導者、依田勉三を考える

あらためて日本という国家を考えるため、わが国の都道府県のなかでも最北端に位置する北の大地、北海道を訪ねることとした。北海道においては新千歳空港から一路、帯広を目指した。帯広は明治時代の初期に依田勉三という人物が晚成社という会社を設立して開拓した土地柄である。帯広市の中心街 にある中島公園には、この依田勉三の銅像があり、今なお市民から親しまれつづけている。

依田勉三は、嘉永六年(1853年)に静岡県の伊豆に誕生した。明治十四年(1881年)の結婚を機に、当時未開の大地であった北海道を開拓しようという志を固め、単身で調査のため北海道に渡った。北海道では函館や胆振、根室、釧路、十勝、日高の沿岸部を綿密に調査し、苫小牧、札幌を経て帰途についた。明治十五年(1882年)には、政府から未開地一万町歩の無償払い下げを受けて開拓を進めるため、郷里の静岡で、依田佐二平、園、善互および勉三を発起人に資本金五万円で晩成社を設立。十勝国河西郡下帯広村を開墾予定地と定め、静岡にて移民団を募った。

明治十六年(1883年)、帯広に入った一行、二十七名による開拓はまさに苦難の連続であった。鹿猟の野火、イナゴの大群や天候不順、ウサギ、ネズミ、鳥による被害などで数年間はほとんど収穫できなかった。しかし、依田勉三をはじめとする晩成社の開拓者はこの地に足を踏みとどめ、執念ともいえる不屈の精神で農馬の導入、羊や豚の飼育によるハムの製造、馬鈴薯澱粉の研究、農耕の機械化など様々な試みに挑戦。明治二十五年(1892年)になって状況がようやく好転したという。

大正五年(1916年)に晚成社の活動は事実上停止し、大正十四年(1925年)には勉三が中風症に倒れる。同年九月、勉三と苦楽を共にしてきた妻が亡くなると、十二月十二日にその後を追うように勉三は帯広町西二条九丁 目の自宅で永眠。勉三の死後、昭和七年(1932年)に晚成合資会社は解散するが、その翌年に帯広は北海道で七番目の市制を施行した。死に直面した勉三はその最期に、「晩成社には何も残らなかった。しかし十勝には」と述懐したという。米国人が安易に多用するフロンティア・スピリットとは根 本的に異なる、日本民族が悠久の歴史のなかで培ってきた「武士道を礎とした開拓精神」というものをこの言葉から読みとれるのではないか。

この帯広では、小学校の教科書にこの晩成社や依田勉三が登場するほど郷土の歴史というものが大切にされている。これは、無数の艱難を高い志で乗り越えて開拓を進めてきた先人たちを学ばせることにより、広大な大地から得ることができる自然の恵みに感謝し、武士道精神の徳目である「仁」にも通じる慈しみやおもいやりの精神を持つこと、さらには本来あるべき姿で大地と共生することの大切さを次世代に伝えていこうとするものではないだろうか。