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下蒲刈海道

丸屋城跡にて戦国時代の多賀谷水軍を偲びつつ梶ヶ浜までをあるく

薄青色の美しい安芸灘大橋をわたって長い坂道をくだってゆくと、正面左手に天神鼻という長細い岬がみえる。この天神鼻のつけ根あたりの小高い丘には、かつて丸屋城という室町時代の水軍、多賀谷氏の居城が存在した。元来、多賀谷氏は、武蔵国多賀谷(現在の埼玉県崎西町田ヶ谷)を本貫とする鎌倉御家人であったが、伊予国周敷郡北条郷(現在の愛媛県北条市)の地頭をつとめた。そして鎌倉幕府倒壊の騒乱時に、現在の下蒲刈、上蒲刈と倉橋をその分国として支配下に置いた。

鎌倉幕府による守護地頭という地方支配の体制が崩壊し、後醍醐天皇による建武の中興も数年で実効力を失ったため、中央の統制から自由になった地方武士が全国各地で自由な行動をおこすようになった。これが南北朝の動乱期である。この動乱期に、北朝方の伊予国守護、仁木義尹に味方した多賀谷彦四郎や山本四郎、野間氏は、南朝方の大豪族、河野通直が伊予を制圧するに伴い、伊予を離れざるをえなくなった。多賀谷彦四郎は、一度支配下に置きながらも花園宮常陸親王に没収された倉橋と蒲刈を奪回し、山本氏は二神、南方氏が去った後の呉にはいり、野間氏は矢野を占拠したといわれる。

その後、防長二国の守護大名、大内氏が安芸国に進出。西条鏡山城を拠点に東西条を直轄支配地としてから、戦国中期にかけてのおよそ二百年間、多賀谷氏率いる蒲刈衆は山本氏などの呉衆、能美島の能美衆とともに三ヶ島衆を形成し、大内直属海賊衆の一翼を担って全国各地に転戦した。

応仁元年(1467年)の応仁の乱に際しては山名宗全率いる西軍についた大内政弘上洛の先陣として、文明九年(1477年)には大内氏の豊前花尾城攻略の一翼を担って、呉衆や能美衆とともに活躍している。多賀谷城ともよばれる丸屋城跡の 近くには、多賀谷一族のものと思われる五輪塔の墓がある。

丸屋城跡から安芸灘大橋の下をくぐりぬけ、安芸の小須磨と謳われた美しい仁方の海岸線を対岸に望みつつ、下蒲刈島の西岸をあるきつづけると尾ノ鼻という岬がある。さらに下蒲刈島の南にうかぶ下黒島、上黒島という小島を眺めつつ島の南部をあるいてゆくと牛ヶ首という岬の手前に漁港がひろがっている。

牛ヶ首トンネルをぬけると、数多くの松につつまれた梶ヶ浜という美しい海水浴場があり、その周囲には、日本庭園や姫ひじき・塩づくり体験施設、貝と海藻の家、さらには炭や薪を使った昔ながらの農漁村の生活が体験できる古民家風の宿泊施設であるコテージ梶ヶ浜がある。その昔、この近海で難破した船の舵が数多く流れ着いたことから梶ヶ浜とよばれるようになったとされており、実際に存在する「覚壽院智清儀、寛延三年(1750年)庚午正月廿三日」と 刻まれた墓石は、この地で難破して亡くなった方のものであると伝えられている。