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三之瀬海道Ⅰ

海上交通の要衝として栄えた三之瀬地区の松園を訪ねる

梶ヶ浜からしばらく北へあるきつづけると下蒲刈島と上蒲刈島とを結ぶ淡い青色の蒲刈大橋が見えてくるが、この橋の足元に広がる港まちが三之瀬地区である。このたびは三之瀬本陣界隈にお住まいで、この地域のボランティア活動を積極的にされている三谷氏にこの地区に宿る歴史について大変貴重なお話をうかがうことができた

この三之瀬は江戸時代を通じて瀬戸内海航路の要衝として栄えた港まちである。豊臣秀吉による朝鮮出兵のときに西海航路が整備され、要所に海駅が設けられて継船の習慣が始まり、徳川幕府はこれを継承した。安芸の国ではこの三之瀬が海駅に指定され、西から数えて長門国の赤間関(現在の下関)を一之関、周防国の上関(現在の柳井市)を二之関、そしてこの港が三之関とされたことから三之瀬と名づけられたともいう。

この三之瀬地区は、江戸期を通じて西国大名の参勤交代や長崎出島に設けられたオランダ商館館長の江戸参府、琉球使節の江戸訪問、長崎奉行の江戸との連絡、さらには北前船などの商船の寄港地として大いに栄えた。江戸時代に毎年江戸参府を実施したといわれるオランダ商館長による三之瀬への寄 港は百七十七回、琉球使節の寄港は十六回におよぶと伝えられる。

慶長十二年(1607年)から文化八年(1811年)まで合計十二回におよんだ朝鮮通信使はこのうち十一回もこの三之瀬に寄港している。徳川将軍の代替わりの際、朝鮮国王からの国書を持って江戸に派遣された朝鮮通信使がこ の三之瀬に立ち寄るたびに安芸の国あげての大接待が実施された。

下蒲刈町商工会、下蒲刈支所に隣接して松濤園がある。この松濤園は、上蒲刈島と対峙する海峡に沿った長細い回遊式庭園であり、このなかに御馳走一番館、あかりの館、陶磁器館、蒲刈島御番所といった建物が存在する。明治中期に建てられた富山県砺波地方の代表的な商家造りの建物を移設した御馳走一番館には、十分の一サイ ズの朝鮮通信使船の模型や通信使の人形、三汁十五菜を再現した模型などの資料が多数展示されており、通信使の日記に「御馳走一番」と記されたことがよく理解できる。

毛利元就誕生の地である吉田出身で、毛利氏が徳川家康により長州に封じ込められた際に柳井に移住し、江戸期を通じて大庄屋となった吉田家の商家を移設したあかりの館には、西洋や日本の灯火器などが展示されており、江戸中期に建てられた宮島の門前町の町屋を移設した陶磁器館には、日本の 名器鍋島を始め、中国や朝鮮の陶器が展示されている。江戸期の番所を再現した御番所にある道具たてには、突棒、ガリ棒、サス棒という三道具が設置されており、当時の様子を偲ぶことができる。