48
三之瀬海道Ⅱ

三之瀬地区の情緒ある石畳をあるきつつ、朝鮮通信使を考える

松濤園から石畳の情緒溢れるみちをはさんで、蘭島閣美術館や白雪楼がある。総檜造りの蘭島閣美術館には、南薫造などこの界隈ゆかりの画家が海や松など瀬戸内海の美を描いた作品が多数収蔵されており、これに隣接する蘭島閣美術館別館には、上蒲刈出身の父を持ち、日本を代表する洋画家である寺内萬次郎の作品が展示されている。美術館横の石段をのぼってゆくと白雪楼がある。これは江戸後期に建てられた竹原の頼本家の建築物を移築したものであり、まことに情緒がある。抹茶を頂くことができる和室には壁が回転するどんでん返しがついている。

石畳のみちをしばらくあるくと県指定史跡でもある三之瀬御本陣芸術文化館や三之瀬朝鮮通信使宿館跡、さらに侍屋敷といった建築物が軒を連ねる。三之瀬御本陣は、主に朝鮮通信使の案内役をつとめた対馬藩の宿泊所として使用され、大名や幕吏、公家などの往来時にも利用された。三之瀬御本陣芸術 文化館は当時の外観を復元したものであるが、侍屋敷は江戸期に建てられたものがそのままの状態でのこされている。

侍屋敷の裏手には、江戸時代に掘られた井戸や朝鮮通信使宿館跡地がある。江戸期の井戸の背後につづく石段の上には、多賀谷氏をはじめとする三ヶ島衆が活躍していた大永元年(1521年)に創建されたとされる森之奥厳島神社がある。この神社の境内にある手洗鉢には盃状穴が七つ刻み込まれている。さらに長浜の勤皇僧、宇都宮黙霖ゆかりの弘願寺もある。黙霖は二十歳をむかえた天保十四年(1843年)、当時この寺の住職であった円識が主催する樹心斎塾で仏教を学んでいる。

三之瀬御本陣の正面には、江戸初期に安芸の守として広島城に入部し、のちに幕府の許可なく城を拡張した罪により改易された福島正則が、藩主時代に寄進した福島雁木(長雁木)がある。当初は現在の位置より前方に一直線に築かれていたが、潮流により一夜にして崩壊したため、現在のように途中に折れ目を入れて築き直されたといわれる。この雁木は元来十一 段であったが、昭和にはいって地盤沈下などがあり、三段加えられて十四段とされた。この雁木に立っと、朝鮮通信使たちを出迎え、異郷の人たちとの深い交流によって賑わったであろう往時を偲ぶことができる。

このたびは三谷氏のおかげで三之瀬地区の歴史を深く理解することができた。このように地元の方々による観光案内が充実しているのは、このあたりではこの三之瀬と御手洗だけであるとされている。全国各地や海外から訪れる観光客に郷土の歴史を語りつつおもてなしをする精神は、これらの地区の 先人たちと異郷の人々との交流により長年培われてきたものであるといえるかもしれない。大和ミュージアムが開設されてからこの三 之瀬への観光客も増えているとのことであるが、郷土の歴史を語りながらその魅力を発信していくといったソフト面の充実やその管理体制の整備が急がれるのではない だろうか。