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上蒲刈海道Ⅰ

上蒲刈島南岸をあるき、空海や弁慶ゆかりの西泊観音を訪ねる

蒲刈大橋をわたると右手に「であいの館」という蒲刈町の総合案内施設がある。施設の周辺は四季折々の美しい花々が植えられており、この近海で採れる魚介類の市場が催されることもあるという。また、この地よりのびる小さな岬の丘の上には展望台があり、安芸灘から四国方面を望むことができる。

この上蒲刈島の西端部は向地区とよばれ、善正寺や春日神社、本宮神社がある。なかでも春日神社では、毎年お盆に地元の青年団が手掛ける伝統的な祭が開催されているが、祭自体が醸しだす幻想的な雰囲気が今なお大切に残されている。盆踊りで歌われる民謡は、四国より伝えられたものであると聞くが、あるいは、伊予からやってきた多賀谷氏と共に流れてきたものかもしれない。

向地区から上蒲刈島の南岸をあるきつづけると島の中央に標高457メートルを誇る七国見山というまことに見晴らしのよさそうな名称の山が姿をあらわす。原トンネルを抜け、黒鼻を眺めつつあるいてゆくとウォーキングセンターがあり、七国見山を目指して山を少しのぼると見晴らしのよい西泊公園がある。ここからさらに山をのぼってゆくと弘法大師空海が開基したといわれる西泊観音があるという。

大同年間(806年~809年)、弘法大師空海は厳島神社に末社建立の志を抱いて下向の途中、水を求めてこの島に立ち寄り、潮待ちのため一泊した。翌朝、西泊の峰を仰いで、「この山は仏法有縁の霊地なり。よろしく十一面観音菩薩を安置すべし」と島民にお告げをしたことから奉安されたお堂が西泊観音の起源とされる。このとき、霊水を汲んだ癖谷浦の川が弘法川とよばれるようになった。

その後、源平合戦のとき、この地の観音の霊験あらたかなことを知った武蔵坊弁慶が、平家追討の祈願のために立ち寄ったと伝えられ、弁慶屏風岩が残っている。また鎌倉時代には、保々呂与助という人物がこの地のほら穴に住みついたそうであるが、ある夜、人食鬼に遭遇した。このとき、梵鐘が鳴り響いたうえ宝冠が輝いたため、鬼は恐れて退散したという伝説も残っており、この地の霊験を物語っている。

その後、延文元年(1358年)に何者かの手によって西泊観音霊 像が島外に持ち去られて行方知れずとなってから三百年以上の間、廃墟のままとなった。江戸中期である元禄三年(160年)にこの島の大浦の庄屋、今村部左衛門 をはじめとする村人一同が協議の上、再び御堂を建立、十一面観音立像を安置したと記録に残っている。その後、十二年に一回、午の年ごとに御開帳が行われ、島内外の厚い信仰を集めている。