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御手洗海道Ⅰ

天満宮にて菅原道真を偲びつつ、風情ある御手洗のまちをあるく

みかんで有名な大長地区に隣接して、御手洗という重要伝統的建造物群保存地区がある。海岸沿いのみちをあるいてゆくと江戸時代中期に移転、再建されたという弁天社があり、これを右には文化三年(1806年)、伊能忠敬が測量のため御手洗を訪れた際に宿泊したという菊本邸がある。さらに江戸時代の町屋がならぶ梅屋小路をあるいてゆくと菅原道真ゆかりの天満宮がある。

菅原道真は、承和十二年(845年)、京都で代々学者として朝廷に仕える家柄に生まれた。少年時代から詩や学問に優れ、文章博士を経て官職についていた。寛平六年(894年)、宇多天皇より、遣唐大使に任命されるが、唐の内乱や朝廷の財政難を理由に遣唐使を廃止。続く醍醐天皇にも見込まれて 右大臣に抜擢され、地方重視、庶民重視の政治を展開して大いに活躍した。しかし、道真の出世を嫉 む左大臣、藤原時平の陰謀により、醍醐天皇から謀反の疑いをかけられ、大宰府に左遷させられることとなった。道真は京を去るとき、「東風吹けばにおいおこせよ梅の花」という詩を残している。

延暦元年(901年)、道真が九州大宰府に流される途上、この港に寄港して、天満宮の井戸で手を洗ったことからこの地が御手洗とよばれるようになった。この天満宮には、道真が手を洗ったとされる菅公の井戸や彼を偲ぶ菅公の碑がある。大宰府に流された道真は、この港を立ち寄った二年後の延暦三年(903年)、大宰府において、悲運のなかで五十八年の生涯を閉じた。

天満宮の近所には、幕末、長州藩と広島藩の軍事協定である御手洗条約が締結されたといわれる金子邸があり、その正面には江戸時 代の遊郭、若胡子屋跡がある。

これは江戸期に四件あったとされる御手洗の遊郭のうち唯一残る建築物であり、最盛期には百人にもおよぶ遊女を抱えていたといわれる。

さらに江戸時代に建築された商家がそのまま残る路地裏の細いみちをあるくと昔懐かしい丸型の郵便ポストがある郵便局があり、これを右に曲がると豊臣秀吉による四国攻略の前線基地となった際に築かれたと伝えられる立派な石垣の満舟寺がある。満舟寺には、小林一茶の友人で、この御手洗に住み着いた江戸時代の俳人、栗田樗堂の墓所がある。

満舟寺から再び石垣に沿ってあるいてゆくと、乙女座という昭和初期の映画館を復元した建物がある。この乙女座は昭和十二年(1937年)に建設され、映画や芝居、大道芸の興行、青年会の社交場として昭和三十年(1955年)まで利用された後、空き家となっていた。現在の建物は平成十四年(2002年)に復元されたもので、当時を再現した館内を見学できるようになっている。