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御手洗海道Ⅱ

七卿落遺跡で幕末を偲びつつ、千砂小波止まであるく

乙女座の裏には、海岸沿いのみちに面して江戸みなとまち展示館がある。この展示館では、江戸時代に潮待ちや風待ちをする船で賑わい、栄えた御手洗の文化について交流を主題に、船運で盛んであった交易、娯楽文化を中心とした交遊、幕末立ち寄った志士や外国人のエピソードに触れる交歓という三つの角度から紹介されている。この御手洗という港まちが、江戸時代を通じて、港を立ち寄る様々な人々との交流をはかりつつ、華やかな文化を開花させたことがよくわかる。

この地区の東北端に位置する恵比須神社に隣接して広島県指定史跡である七卿落遺跡がある。これは、文久三年(1863年)に勃発した八・一八の政変で、長州藩寄りの過激公卿として京都を追われた三条実美ら七名が長州へ落ちのびる途上の元治元年(1864年)、港まちとして栄えたこの御手洗に立ち寄った際に宿泊した家屋が残されているものである。建物にはいり、障子をあけて縁側に立つと目の前に広がる海と島の景観美を楽しむことができる。

また、これより遡ること十年、ペリー提督率いる黒船艦隊が最初に浦賀沖に来航した嘉永六年(1853年)には、江戸遊学中の吉田松陰がプーチン率いるロシア艦隊が長崎へ来航するとの情報を入手して下向の途中、この御手洗 に立ち寄っているとの記録が残っている。

さらに松陰の死後、倒幕維新を推し進めた幕末の志士、高杉晋作や坂本龍馬などが志士活動に奔走し、京と下関、長崎を往来するなかでこの御手洗に幾度となく立ち寄っている。幕末の動乱期に全国を奔走した志士たちが、美しい景観の情緒あるこの港まちで束の間の落ち着いたときを過ごしたであろうことが偲ばれる。

東の海岸線をあるいてゆくと千砂子波止という江戸時代に築かれた巨大な防波堤がある。この堤防の内側は白く美しい雁木となっており、これに隣接して住吉神社や石の太鼓橋、高灯篭があり、江戸期の港まちさながらの景観に圧倒される。雁木の大きさから北前船などの大型の船舶が数多く係留できたであろうことうかがわれ、当時、西国無双の港として全国に知れわたっていたことが容易に理解できる。

港まちとしての歴史を肌で感じ ることができる御手洗地区全体が、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。現在でも、山口県の萩市や長崎県の島原市などで、江戸時代の上級藩士や下級藩士の武家屋敷が数区画単位で大規模に保存されているが、この時代における旅館や遊郭、醤油屋、材 木問屋などといった商家の建物がこれ程の規模で残されている地区は全国でも珍しいのではないだろうか。いずれにしても私たちは、歴史ある郷土の遺産を大切に保存し、次世代に伝えていこうとする御手洗のようなまちづくりのあり方に、多くを学ぶべきではないだろうか。