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遥かなるアンタルヤⅠ

明治期よりわが国と友好関係にあるトルコという国家を考える

祖国と郷土を今一度見つめ直すため、トルコ共和国アンタルヤを訪ねた。わが国とトルコの友好関係は古い。明治二十三年(1890年)、トルコ皇帝が日本に派遣した特使一行を乗せたエルトゥールル号が、その帰路暴風雨に遭って沈没するという事故が発生した。このとき和歌山県串本町の人々は台 風のなか、命がけの救助と手厚い救護をした。これにより69名のトルコ人が一命を取り留め、日本の巡洋艦でトルコに送還されて無事郷土に帰りつくことができた。これを契機に日本とトルコの友好関係が始まったとされる。

また、当時、日本とトルコには、強大な軍事力を背景に領土拡大を推し進めていた帝政ロシアという共通の敵が存在した。ロシアの南下政策により、トルコはクリミア半島を取られたばかりでなく、1877年にはイスタンブールも陥落した。ロシアの南下政策は極東にまでおよび、ウラジオストクに海軍の拠点を築いたうえ、1898年には旅順と大連を租借。増大するロシ アの脅威に対して日本は抗議をしたが、逆にロシアは極東への軍事力を増強して日本へ圧力をかけた。

この国家存亡の危機に日本の進むべき道はロシアとの開戦しかなかった。明治三十七年(1904年)に日露戦争勃発。日本陸軍は続々と中国大陸に上陸し、各地でロシアと野戦を展開した。乃木希典が苦戦した旅順では、児玉源太郎が指揮を執ることで要害203高地を占領し、最大の山場を乗り切ることに成功。奉天会戦での勝利につなげることができた。明治三十八年(1905年)の日本海海戦においては、当時世界最大と謳われたバルチック艦隊を東郷平八郎率いる連合艦隊が壊滅させて日露戦争が終結した。

日露戦争における日本の勝利にトルコ中が沸きあがったといわれ、日本海海戦の年に生まれた数多くの子供にトーゴーという名前がつけられた。また、トルコにはトー ゴー靴という靴があるが、これも東郷がこの国でいかに敬われているかを物語るエピソードではないか。トルコ人から絶賛された東郷 平八郎が呉在任中の明治二十三年(1890年)から、日本とトルコの友好関係が始まったという事実 に、呉のまちとトルコという国家の間に介在する不思議な因縁を感じざるをえない。

イラン・イラク戦争が激化した1985年、イラクのフセインは「四十八時間後に領空を飛ぶ飛行機は民間機でも打ち落とす」と宣言。テヘランの空港は押し寄せる外国人でパニックとなった。その際、日本政府の対応が遅れ、215人の日本人が取り残される事態となった。この窮状にトルコの特別機二機が駆けつけ、日本人全員を乗せてテヘラン脱出に成功した。このとき、トルコの外交筋は特別機を派遣した理由について「エルトゥールル号の借りを返しただけです」とのみ懐述したという。